平和作り

チア・シード

マタイ5:9   


「平和作り」の一語。日本語だと、平和を・実現する・人々と長いフレーズのように見えますが、ギリシア語では一語です。平和を、どうするの、といった調子は感じられません。ただここにあるのが「平和作り」。8つの幸いを並べているので、他とリズムを合わせたことを考慮したとしても、やはり一語にこめた思いがあるとして想像してみることにしましょう。
 
日本人は8月にこの平和を思うことになっています。沖縄では6月あるいは4月でしょうか。12月も戦争に関係します。教会の礼拝でも、平和を覚える礼拝が前半で開かれることが多いのですが、この「平和を実現する人々」の印象は強く、これは人にできないが神にはできる、という結論もよく見かけます。神が主体であって、確かによいと思います。
 
けれども最近、こう訳さず「穏やかさを好む」というような意味合いで解釈することも試みられるようになりました。「平和」は戦争と対比しやすいのですが、同じ語の表す別の意味「平安」だと、荒れたり慌てたりする心でなく、穏やかな心であると説明することができます。原語では平和と平安のどちらも表すことができる語なのです。
 
実はこの語、聖書の中で、ここだけにしか使われない、レアな語なのです。それで、他の箇所と比較して意味を考えることができないという事情があります。けれども、ローマ12:18やヘブライ12:13などを読むと、こういうことが言いたいのではないか、と気づくことも可能です。イエスも事あるごとに、平和については口にしています。
 
中には、自分の心の「平安」について言っている場合もありますが、「平和」についてのほうが言及が多いと思います。何も戦争に対するものとは限りません。人々との間の関係ということです。私の内部の問題ではないのです。それも大切ですし、簡単なことではないのですが、別の人格同士の間に平和の関係を実現させるということは、私ひとりの考え方や感情だけでは解決がつきません。
 
それは人間にはできないとさえ思います。これができたら、人間の業ではないものだから、神の子と呼ばれて然るべきだ、そのように考えられるのかもしれません。幸いなり、と言い放った後、他の句と同じように「なぜならそうした人々は」と強調しています。神の子としてのはたらきをなしているから、神の子だと名指しされてもよいというのです。
 
神の子だと名づけられる。あるいは、神の子だと呼ばれる。誰からでしょう。誰がそう呼ぶのですか。人からでしょうか。人にそのような権限はありません。人間から「神の子」と呼ばれていい気になるのはローマ皇帝で沢山です。隠れた主語はもちろん神のはず。神があなたを子と呼ぶのです。イエスがこのナイスなニュースを、私たちに告げているのです。


Takapan
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