敵を愛せ

チア・シード

マタイ5:43-48   


山上の説教が始まっています。イエスの語録を並べたとされますが、それなりに秩序はあると思います。ここでは、復讐の排除から、次に敵を愛することへと展開しています。隣人を愛し敵を憎め。これは私たちの聖書のどこを探しても見当たりません。クムラン教団の教えの中に見出されるという研究があります。イエスの時代これが知られていたのでしょうか。
 
イエスがクムラン教団と関わっていたのではないかという説もありますが、当時人口に膾炙していたとも思われ、また当然そのような常識があったのではないか、とも考えられます。十戒にある「殺すな」は仲間のことであり、敵に対しては「殺せ」と旧約聖書は盛んに命じます。敵を憎め、というのが十戒に反しているという批判は適切ではありません。
 
敵を愛せ。これはアガペーが使われています。イエスは弟子たちあるいは群衆にこれを語るとともに、当然私たちにも迫っています。そして迫害する者のために祈れ。おや、待ってください。こんな命令言われてもできるはずないじゃないか、とも言われますが、祈ることだったら、実際まだできることではないでしょうか。
 
教会共同体の中であれば、互いに赦せという命令もありうるでしょう。しかし敵を赦せという命令だと困ります。これは聖書では命じていません。敵は愛するだけ、祈れということであって、敵を赦すよう迫ってはいないのです。完全であるためには、ルカのように、父のごとく憐れみ深くなればいい。祈りましょう。祈ることなら、できるかもしれません。
 
太陽の光も、作物に必要な雨も、父なる神を人の顔色を見て与えるかどうかを決めるようなことはしません。尤も、だから万人救済説なのかということが言いたいのでもありません。私たち人間の目で裁きの判断を決着させてはならないのです。神はあらゆる者に、そう、悪人にも、私からすれば敵にあたる者にも、チャンスを与えているのですから。
 
マタイが、徴税人や異邦人を結局ここで区別して見下している、という指摘があります。でも、だからイエスがこうした人々を見放していると決める必要もありません。イエスはそのために命を棄てたのです。イエスは弟子たち、群衆に向けてこのメッセージを発しています。虐げられていたとしても、社会から毛嫌いされているとまでは言えない人々に対してです。
 
隣人への愛について、ここでは当然視されている点にはぜひ注目しましょう。話題はすぐに敵に移り、隣人を愛することがとやかく言われているのではありませでしたが、あのサマリア人の話で、誰が瀕死の者の隣人になったかと問うたイエスの顔が思い浮かびます。イエスこそ、敵をも自分の隣人とした人でした。この私が、そもそもイエスの敵だったのです。


Takapan
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