敵を愛せば完全な者になる

チア・シード

マタイ5:43-48


隣人を愛し、敵を憎め。あなたがたはそう命じられている、とイエスは言ったといいます。まずここに罠があります。新共同訳が「命じられている」と訳しているところは、他の殆どの訳は「言われている」となっています。原語もそうです。フランシスコ会訳が「命じられている」となっており、カトリックとの共同訳として、カトリック寄りになっている印象は否めません。
 
命じられている、とくれば、それは律法のどれだ、という話になります。しかしこれはモーセ五書などの律法には見当たりません。岩波訳の注によると、クムラン教団の文書の中にいくつか見られるそうです。私たちが「聞いているとおり」なのですから、これは律法に制限せず、私たちが聞き知っていること、つまり「常識」として捉えてみてはどうでしょう。人間の常識としては、敵を憎むのは当然であるだろう、というわけです。
 
「しかし」とイエスは言います。ここで、形式からすれば対立命題としてイエスの考えを提示していると言えますが、果たしてそれは単純に反対の意味なのでしょうか。形式的には確かにそうですが、これを私たちは、人間の常識を超えたところにある神の視座・視点に基づくものと考えてみる必要があるように思います。つまりそれは人間の常識と二元的に対立するものではなく、人間の考えを遙かに超えたもの、従って人間が容易に把握できない大きな包むもの、そのように捉えてみたいのです。
 
人間は、自分の目に見えるものを真理だと思います。さらに言えば、自分の考えが絶対正しい、と考えています。自分の考えを突き崩す大きな視点には、気づいていないのです。気づいていないから、自分の間違いが理解できません。自分の考えこそ当然の、常識の真理であるという思いなしへ、イエスは警告を与えます。「しかし」と介入してくるのです。本当にそうなのか、別の視点はないのか、と迫ってきます。
 
イエスの眼差しは、私とは違う景色をもたらします。私の目には常識と思われていても、敵を憎むことが絶対の真理ではないというのです。敵を愛せ、そして自分を迫害する者のために祈れ。「愛する」ことは些か抽象的にも聞こえます。それに対して「祈れ」は比較的具体的です。敵のために祈ることは、近づけない業ではないのです。祈るとは何か。神と向き合うことであり、神との一定の関係の中に置かれることです。神との結びつきを強固なものにするのが祈りです。
 
敵を愛せ。この目的は何だったか、よく読むとちゃんと書いてあります。許すためではありません。父の子となるためです。神と結びつくことです。人の目には悪人や善人と区別するかもしれませんが、地上では同じように日を浴び、雨を浴びます。変わりがありません。その人間の目から見て悪だ善だと区別することにどれほどの得があるというのでしょう。徴税人や異邦人など、差別意識がありありの表現がとられてはいますが、私たちが軽蔑しているような人と、私自身がやっていることは何も変わらないのだよ、と指摘していると受け止めましょう。
 
神と同じように完全であれ。この完全が私たちの気持ちを引いてしまいます。できるわけないじゃないか、と。言葉のニュアンスとしては、たとえば十分な成長を遂げること、キリスト者として相応しい者となることだと理解できます。キリスト者として恥ずかしくない者となるのだという意味に受け取るならば、神を父としてその恵みを受け継ぎ、神との関係の中に確かに置かれ続ける者となれ、としてこの要求を聞くこともできるでしょう。人が、人間にとっては常識であるような考えに囚われず、人間としての分際を弁え、その中で神との適切な関係を結んでいること、それが求められていたのではないでしょうか。


Takapan
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