従う者に喜びを与える
チア・シード
マタイ5:1-12
「大勢の群衆が来てイエスに付いて行った」(4:25)と情況を設定しておいて、マタイ伝は、いわゆる山上の説教の場面を語り始めます。「イエスはこの群衆を見て、山に登られた」のだといいます。そして腰を下ろし、弟子たちを侍らせると、「口を開き、彼らに教えられた」というのです。弟子たちにのみ話したかのようにも聞こえます。
でも、「群衆はその教えに驚いた」(7:28)と、山上の説教の終わりに書かれてあるならば、これは群衆も聞いているはずです。その割には、山上の説教は、かなり深い信仰の姿勢が含まれているように思われてなりません。このイエスの話を聞くために、群衆は「イエスに付いて行った」(4:25)のでした。イエスに付き従ったからこそ聞けたのです。
当たり前ではないか、と言われそうですが、それでは私たちはいまイエスの言葉を聞いていますが、果たしてイエスに付いて行ったと言えるのでしょうか。自らに問い直しましょう。さあ、ここからは山上の説教の本筋です。開口一番、イエスは何を発したか。「幸い」と言いました。これから始まるメッセージは、幸いの知らせなのです。
詩編の始まりも同様に、「幸い」でした。聖書のメッセージは、幸いに始まったのです。そして、詩編はハレルヤで終わります。「幸い」と賛美に包まれているのです。マタイ伝はこの山上の説教で、心の貧しい人々を挙げました。霊において貧しい人々とも訳せると注釈が付いています。ルカ伝は単に貧しい人とだけ指摘していました。
群衆の中に、そのような貧困の中にある人が、どれくらいいたでしょうか。想像するよりほかはありません。悲しむ人々、へりくだった人々、義に飢え渇く人々、憐れみ深い人々、心の清い人々、そして平和を造る人々。さらに、義のために迫害された人々については、長いコメントが続いています。イエスのために迫害された場合のことです。
罵りと悪口を向けられて迫害されることがあるでしょう。そのとき、「喜びなさい。大いに喜びなさい」とイエスは畳みかけます。「天には大きな報いがある」からです。たとえルサンチマンだと悪口を叩かれても、歴史上のキリスト者は、その報いを期待して、苦難と不条理の下で、確かに喜んでいました。私も、それに続いていきたいと思います。