地の塩・世の光・山上の町

チア・シード

マタイ5:13-16   


「君たちは」と面と向かって呼びかけてくるイエス。「である」と断定してきます。存在を明確に指摘します。そう、「地の塩」であり「世の光」であるというのです。この力強さが、イエスの山上の説教において二つ目の要素としてぶつけられてきました。そのようになれとか目指せとかいうのでなく、すでに地の塩である、世の光である、と言うのです。
 
この2つが突出して目立ちますが、よく見ているうちに、これらを山上の町というイメージへまとめ上げているマタイの編集の意図、またはイエスの思いが感じられてきます。地にしろ世にしろ、神の場としての天ではなく、人間世界のことです。私たちの見渡す立場において、私たちがどういう励ましを以て立ち上がればよいのかを教えてくれるようです。
 
塩は人間の生命にとっても重要なものですが、永遠の塩の契約(民数18:19,歴代二13:5)が民と交わされていたことを忘れてはいけません。エリシャが塩により、毒の水を清めた記事(列王二2章)を思い起こすことも必要でしょう。人は清められねばなりません。マルコ9:49のように、人は火で塩味を付けられることも教訓的です。そこに火があるでしょうか。
 
なんとなく口をついて出てくるほど有名な「地の塩」という言葉ですが、あまりにシンプルなため、案外深い意味に気づいていないのが私たちです。いや、謎だらけです。世界の光たるその光は、元来人から発されるものではありません。私たちは火を灯されはするが、自ら灯りそのものを創造できません。
 
ヨハネ伝の光を待つまでもなく、パウロを作りかえた光の話や、神の輝きが人を変えていくことを思うと、光は神からだという天を押さえなければ始まらないことが分かります。イエスの言葉を携えて、その力を示すはたらきを私たちは担っています。私たち自身の輝きではないけれども、私たちが輝かせる任務を負っているのです。
 
この光と灯は、低いところから広く照らし渡らせることはできません。せっかくの火を隠し、消すようなこともよくありません。山の上は主が現れ、人々に威光を示す場所です。とくにマタイはこの山上の説教もそうですし、上よりの権威という構図を大切にしていますから、神から下されるものがひとを生かすのだと訴えたくてたまらないのだと思います。
 
いままさにイエスが山上から光を投げかけています。しかし、立派な行いをするべき私たちはここにいるというからと言って、善を頑張らねば、というのでもありません。光を受けて反射することができれば最高です。塩も光も、根本はこちらにあるのです、と主を指し示すことができたら、私たちはそれがこよなく立派な行いと言えるのだと思います。


Takapan
たかぱんワイドのトップページにもどります