祝福の始まり

チア・シード

マタイ5:1-12   


幸いだ。山から語ったという場面設定をして、マタイはイエスの教えの語録をまとめるとき、そのスタートをこの幸い宣言から始めました。イエスは新しい律法をもたらした、として編集をしたと思われるマタイですが、その開口一番、幸いを人に告げたことを大きく受け止めたいものです。
 
モーセの律法も神の山から授かりました。旧約のイスラエルの神はカナン人たちから、山の神だと見られていたふしもあります。マルコは、福音書という文学形式をもたらした画期的な書でありましたが、律法への再帰と弟子たちの権威づけの点でマルコに抵抗したのがマタイではないかと見られていますが、その語録がここに集められていたのでした。
 
ここでまとめられた教えは5章から7章までですが、キリストの教えは、この「幸い」に始まり、「聞いて行え」で終わる仕組みになっています。詩編もこうした点の強調がありましょうから、ユダヤの教えの根幹の部分であるとも言えるかと思います。行う者の幸い、それはパウロが強調した信による義に少し揺れ戻しをかけたとも取れるでしょう。
 
神の国をマタイは、神の名を避けて天の国と呼びます。幸いなのは天の国を約束された者たちであり、すでにそこにいる者たちであり、またそれを築く者たちのこと。霊的に貧しい者がまず祝福されますが、ここには幾つかの逆説めいた表現が見られます。この世で虐げられ、希望もなく差別された社会の隅っこに追いやられた人々に届く福音でありました。
 
律法はエリート身分でないと、なかなか守り通せるものではありません。パウロが、ある意味でいとも簡単に律法を乗りこえることを表向きに示しましたが、マタイはそれにブレーキをかけたのではないかと思われます。それはその後のキリスト教の動きとしては陰に隠れた方面となりましたが、福音書の冒頭を飾る栄誉を受けたと見ることもできます。
 
パウロは迫害を、個人的に受けたようでした。マタイは、教会単位で迫害を受けている様を見ているように思われます。弱い小さな者たちが、ローマ帝国に、あるいは従来のユダヤ人たちにより、窮地に追い込まれている。それをもイエスは幸いだ、喜べと教えたというのでしたから、既存の価値観を逆転する論理が必要であったのかもしれません。


Takapan
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