洗礼者ヨハネの前に来た者たちは
チア・シード
マタイ3:1-12
預言者イザヤの言葉が、洗礼者ヨハネのことを表している、という理解は、なにもマタイだけではありません。四つの福音書が口を揃えて証言しています。キリストの弟子たる自覚をもつ教会にとり、これは最重要課題の一つであったのです。あるいは、このヨハネという存在は、世の中で非常に有名であったからこそ、触れられたのかもしれません。
あの有名なヨハネが、実は前座に過ぎなかったのだよ、と。ヨハネなら、万人に説得力のある神の人であったのではないでしょうか。聖書に登場する人物としては、例外的にその風体が細かく描写されています。「らくたの毛衣」「革の帯」があり、「ばったと野蜜」を食していました。預言者としても、破格ではないでしょうか。
さらに、その発言が詳しく残されているわけですが、イエスを別として、神の教えと呼ぶに値する言葉を発する人物は、イエスの同時代には誰もいません。後々弟子たちは、確かに神の言葉を取り次ぐのですが。、ここでは、ファリサイ派やサドカイ派の人々に対する徹底した非難の言葉を浴びせています。これでもか、というほどにそれは厳しいのです。
しかし、ここでファリサイ派やサドカイ派の人々は「大勢、洗礼を受けに来た」のです。ヨハネは「悔い改めに導くために」水で洗礼を授けていました。彼らは、その行為を批判するためにではなく、この洗礼を受ける当事者としてそこに来ていたのです。そしてヨハネも、洗礼を受けに来たことそのものを拒否していたようには窺えません。
ただ、「悔い改めにふさわしい実を結べ」ときつい言葉を告げました。そしてここで、私はぶるっと震えました。私はしばしば、ファリサイ派やサドカイ派の人々を、クリスチャンの姿に重ねて捉える癖がついているからです。彼らは神の言葉を預かる役回りだったので、ヨハネの言葉は、クリスチャンへの警告ではないか、と受け止めてしまうのです。
足元に斧が見えないでしょうか。「良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」との警告は他人事でしょうか。ヨハネですら、この批判をぶつけていました。処罰のできる方は、この後に来るイエスです。「聖霊と火であなたがたに洗礼をお授けになる」方です。水で清くするばかりでなく、火で焼き尽くしてしまう力をもつ方なのです。