戻らなかった

チア・シード

マタイ2:7-12   


博士たちを、ヘロデはこっそり呼び寄せました。これは、祭司長や律法学者たちに知られぬようにした、ということだと思われます。先に、彼らを集めて尋ねていました。ユダヤの王が産まれたとの噂があるが、いったい預言によるとどこのことか。彼らは、ユダヤのベツレヘムにてメシアが現れると答えました。
 
ヘロデは、誰かにその居所を突き止めさせたいのですが、博士たちに探させることを考えました。それを祭司長や律法学者たちが知ると、これは血の雨が降ると察するに違いありませんから、忠言や妨害が入る虞があります。少なくともいくらか厄介なことになりかねません。ヘロデは、博士たちをこっそり呼び寄せます。
 
その王が見つかったらぜひ知らせてくれ。私も拝みたい。いかにも敬虔そうな顔をして、ヘロデのことをよく知らない博士たちに迫ります。限りない悪意がそこに隠れています。私たちの世界には、この悪意を隠して故意に騙す人もいますが、自らの悪意に気づかずして、無邪気に悪なる行為をする場合が、実は数知れずあるのです。
 
さて、博士たちは幼子を見出して礼拝をします。クリスマス・ストーリーとしては、やはりここが中心となるはずです。けれども今、あえてここをスルーします。博士たちはここで神から夢を与えられます。希望の夢ではありません。神は夢を通じて人に呼びかけます。神から人への介入方法を、きっと夢と呼んでいるのです。
 
ヨセフへの夢をマタイは幾度も取り上げます。博士たちをもまた、同様に夢で動かします。物語の展開のために夢が便利だから、という意地悪な解釈もあるかもしれませんが、ともかくも博士たちは、お人好しにヘロデのところに戻ろうとしたことを、この夢が止めたのです。もはや星ではなく、神の直接的な介入だとマタイは理解したのです。
 
主はイエスの命を守るため、ヘロデのところに博士たちを行かせませんでした。そのことは後に、ヘロデの狂った怒りを惹き起こし、多くの嬰児の犠牲を生みました。この子たちは、イエスの身代わりに死んだことになります。なんということでしょう。古くから多くの思索者や芸術家が、この出来事に胸を痛め、なんとか表現しようとしてきました。
 
博士たちは、ヘロデへと続く道を戻らないこと、人の顔色を思い起こさないこと、人の親切に義理立てするような心配はいらないこと、そんなことを学んだのではないでしょうか。私たちもまた、教会でこうしたことにより、柵の中で不本意なことに従ったり、不愉快な思いを我慢したりしているかもしれません。しかし、神はすでに声をかけています。


Takapan
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