マタイの結末

チア・シード

マタイ28:16-20   


復活の記事にはあまり具体性はありません。十字架の場面で死人が復活するなど、目を見張るポイントを描く割に、マタイは復活にはあっさりしています。女たちがまず復活のイエスに会います。番兵たちの事情を伝えると、いつの間にか弟子たちがガリラヤに集まっています。背景事情が一切省かれていると言っても過言ではありません。
 
まるで終わりを急いでいるかのようです。ユダヤの律法の完成を急ぐため、マルコ伝への修正を加えることに熱心だったマタイは、イエスの教えをたくさん遺してくれました。そのイエスの言葉がずっと私たちから離れず伴うものであることえ知らせるならば、復活をやたら強調して説明する必要を感じなかったのかもしれません。
 
そもそも、復活が疑問視されるということが想定外であった可能性もあります。パウロはすでにアテネで、この件について惨敗しています。マタイは、そうしたギリシア文明の地で勝負しているのではありません。復活というのは、サドカイ派は別として、ユダヤの律法を研究する者たちにとっては、当たり前のことであったに違いないのです。
 
11人の弟子たちがここにいます。イエスがいつどのように指示をして集めたのかよく分かりません。そんなことにマタイは関心がないのです。山はどこなのか、もどうでもいいことです。それらは意味なしとするのでないなら、皆知っていることなのです。だから、弟子たちのすることは、イエスに出会って、ひれ伏すことだけなのでした。
 
トマスの出来事もヨハネのようにドラマ仕立てにせず、あっさりと通りすぎます。イエスの方が近づいてきますから、私たちのほうが探す必要はありません。示された山に登ったということで十分です。山上の説教のように、マタイは山というものに意味をもたせています。あれは山の神だと昔アラム人が称したこととも無関係ではなさそうな気がします。
 
山は、天と地との間にそびえます。そこに登ればモーセのように主と会えるイメージがあります。天が神の座で地が人の世界とすれば、山は神と人との間に位置して神と人とを結ぶもの、つまりキリストを象徴するものと見ることができます。イエスは弟子たちに、行け、と言います。ここに留まるな、現場へ出て行くのだ、と命じます。
 
そうして、すべての民に向けて福音を放つのです。一見ユダヤ主義のようなマタイが、実は全世界を視野に入れて福音伝道を図っていることは、もっと強調されてよいだろうと思います。ここに神の名を3つ挙げました。教義形成への影響大です。福音書がインマヌエルで始まり宙ぶらりんになっていたメッセージが、遂に、いつも共にいると結ばれるのでした。


Takapan
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