マタイの復活証言

チア・シード

マタイ28:1-10   


マタイはマルコの補助を必要とする形でこの福音書を書いたわけではないでしょう。ところが私たちは、福音書を比較して、そこから共通の、あるいは真実のイエスの姿や福音を読み取ろうとしがちです。福音書を相補的にどうしても読もうとするのですが、それはコーヒーと紅茶と緑茶と烏龍茶を混ぜて飲もうとするようなことではないでしょうか。
 
二人のマリアが墓に行ったとするのがマタイ。マルコはこれにサロメが加わっていました。でもそこが問題なのではないと思います。マルコで女たちは、墓の蓋の石のことを心配していました。イエスの遺体に油を塗りに行ったからです。しかしマタイでは、そんな心配はありません。二人は、墓を「見に行った」のでした。
 
マタイでは、番兵がいたのです。番兵たちも、地震を経験し、石が転がってその上に主の天使が座るのを見ていました。マタイは番兵にこだわり、この記事の後も買収の経緯まで記録しています。ルカやヨハネのように、復活の場面の描写には殆ど関心がなく、番兵にひたすら焦点を当て続けているのがマタイです。
 
その上、聖書協会共同訳では、原文で曖昧なところを、この番兵をピラトが出したと解釈して訳出していますが、その番兵たちはこの驚異の目撃の後、直ちに祭司長のところに報告に行っています。これではユダヤ人の兵のようにも見えますから、読者は些か混乱します。ローマ兵がこのようにして金までもらうのかどうか、不自然に思えるのです。
 
十字架につけられたイエスが、復活させられた。起こされたのはいいとして、この受動態は何らかの主語を必要としています。一般に省略された主語は神ですが、復活は神がでよいかもしれませんが、十字架も神がなのでしょうか。そういう神学もあり得ると思いますが、手を下したのはローマ兵であり、そう導いた主犯はユダヤ人でもありましょう。
 
いえ、そこに読者は傍観者なのか、私は大いに疑います。読者、つまり私が主語であると読まなければ、福音ではないのだ、とすら考えるのです。他人が殺したイエスがどうして私の救い主となるのか、理解不能になるからです。イエスを個人的に救い主として受け容れるのが信仰であるのなら、十字架が他人の責任だなどとすることは絶対にできないのです。
 
ところで、石が転がったのは、復活のイエスが出て行くためではないことがここから明らかになります。もうここにはいないのですから。そして、復活が朝早くだったと決めつけることもできません。「いつ」復活したのかということについては、聖書を見る限り、全く答えることができないわけです。
 
女たちは、この墓の中に入ったようには書かれていません。石が動いたのは、中に入るためとは言い難い。ただ、遺体のあった場所を見るようにと促されていますから、これは「見る」ためでした。墓に納めるときにも、この同じ二人が様子を見守っていたとマタイは書いています。つまり、この復活の場面は、目撃の物語、証言として遺されていたのです。
 
マルコでは女たちは恐れるだけでしたが、マタイにはそこに喜びが加わっています。女たちはイエスに出会いますが、イエスの挨拶は「おはよう」ではなく「喜べ」の言葉です。このシーンは喜びに満ちている点を訳も伝えなければ。二人はイエスの足を抱きます。そしてイエスを拝し、ガリラヤ行きを弟子たちに告げる大切な使命を受けた、証人であったのです。


Takapan
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