バラバと責任

チア・シード

マタイ27:15-31   


バラバと呼ばれる名うての囚人、それからピラトの妻が登場します。レアなキャラクターです。とくにバラバは、バラバ・イエスというのが名前全体であるらしく、「どちらのイエスだ」というピラトの問いかけを生み出します。このバラバは、物言わぬ重要人物です。キリストであるイエスと運命を引き替えに扱われることになります。
 
これほどイエスに大きな影響を受けている者がいるでしょうか。有名だったはずですが、強盗なのか、政治犯なのか。義賊であったから民衆は支持したのか、などとも想像が走りますが、結局祭司長や長老たちが群衆を説得して、釈放するのはバラバのほうだ、と叫ばせているので、必ずしもバラバを民衆が好んでいなかったことが想像されます。
 
それでも群衆は、このバラバよりもなお、イエスのほうを死刑にしろ、十字架につけろと怒号のように叫び続けたのでした。バラバ以上に、抹殺すべき人物としてイエスを攻撃したわけです。ローマ法の世界にいるピラトは、慣習で一人恩赦を与えるという対象に、バラバを挙げればさすがにイエスのほうがましだと民衆が言うだろうと計算したはずです。
 
ピラトの読みは完全に外れました。裁判の席でピラトのところに、その妻が、イエスのことで夢に責められたことを知らせてきますが、夢というものに霊的な意味をもつ文化環境では、この事実は重たいものがあります。ピラトがそれをどう判断するか待たずして、ユダヤ人たちは激しくイエスを殺せと興奮状態に陥ってしまうのでした。
 
バラバを釈放するという、ピラトの目論見から程遠い結果が生じました。人々は元来、バラバに同情心や期待心などもちえなかったことになります。民衆も安易に当局の指示に従っています。ピラトはこれを妬みのせいだと考えたとマタイは記していますが、どうやらそりを遙かに通り越えていたような雰囲気があります。
 
ピラトは裁く立場でありながら、イエスに加担してその悪事を小さなものと考えていたことを、民衆にぽろりと零してしまいますが、民意を尋ねておきながら、あるまじき行為でしょう。妻の申し出が心にあったのかもしれません。だからついに、この判決について自分は関係がない、責任がない、と水で手を洗います。よほど暴動が怖いのでしょうか。
 
マタイの記述には、ユダヤ人自身が自らこの責任を負うことを望んだのだ、と証言する言葉が見られます。ピラトはイエスを引き渡します。つまり、裏切ったのです。水と血がこの場面を取り巻いています。総督の部下の兵士たちは、親方の責任のもとにイエスを愚弄します。ひとは、自分の責任を回避すると、どんな酷いことでもできるのです。


Takapan
たかぱんワイドのトップページにもどります