誰もがそこにいる

チア・シード

マタイ27:11-56   


長い場面です。イエスの裁判から、死刑判決、そして十字架刑とイエスの死までがまとめられています。福音書の、ひとつのクライマックスだと言えます。この一連の場面のどこかに、自分は描かれている、必ずどこかにいる、それが今回お話ししたいお知らせです。
 
マタイだけが、イエスの代わりに釈放される囚人の名を、バラバ・イエスと記しています。メシアと呼ばれるイエスではないのか、というピラトの言葉から、マタイが気を利かせてバラバもイエスと呼ぶのか、と考えたのでしょうか。あるいはマタイでなく後世の書き加えなのでしょうか。聖書はしばしば、世話を焼く人により修正や加筆が施されます。
 
マタイは、アラム語の「エロイ、エロイ」ではなく、「エリ、エリ」と描写しています。新約聖書はギリシア語で書かれていますが、それは今なら日本の話を英文で発表しているようなもので、アラム語というのが元来の母語であると見られています。マタイが「エリ」としたのは、旧約の預言者エリヤを呼んでいる様子とリンクするためだと思われます。いろいろ考えるところがあるものです。
 
また、マタイは復活伝承があったのか、ユニークな描写をしています。イエスの死と共に、死者が墓からよみがえって現れたというのです。何か目的があったと思われますが、いまは追究できません。権力者ピラトも、一定の中間管理職の典型でありましょう。地位保全のために世の声に動かされます。確たる信念がなければ、世の声には逆らえません。ピラトの妻のように、とりあえず引いておけば責任を免れると考えるのもありがちです。
 
兵士も登場します。背景には権力がついているという安心感から大胆にもなれますし、任務遂行こそが自分の業務だと理解し、それがつねに正義となります。ヒトラーの許にいたナチス党員の心理もそういうタイプであったかもしれません。驚くほどの凡人が、実に残虐なことを平気で行っていたというのは、決して他人事ではありません。
 
キレネ人シモンは通りすがりでありましたが、卑しいことに使われた役割を果たしました。疲労困憊で潰れそうなイエスの体を救った、いくらか良い役回りではありましたが、社会的に損な立場で強いられる労働者のようにも見えます。神は過労のような辛い目に遭っている誠実な人に目を向けておられることでしょう。
 
兵士たちは、イエスをとことんなぶりものにします。旧約の引用箇所を示すことの多いマタイですが、衣をくじで分ける詩編については出典を伝えることを忘れているかのようです。共に十字架につけられた二人の強盗は、世で犯罪者とされ罰を受けることになりましたが、社会の幸福を思い描き立ち上がった政治犯であるかもしれません。しかし結局群衆などの声に惑わされ、イエスをこの期に及んで罵るなどしたとマタイは記録しています。
 
祭司長や長老たちは、自分を救えと嘲笑います。神にはできないことはない、という聖書の言葉も注意して用いたい。イエスはこの場から逃れることができなかったし、神は逃れさせることができなかったのです。刑死の目撃者の中には、イエスを神の子と見る者もいましたが、マルコのニュアンスと異なり、マタイはそれを恐れからだと説明しています。
 
見守る女性たちがいます。その思いは伏せられていますが、長らくイエスに付き従い、生活を地道に支えていたであろうことが推測されます。イエスと弟子たちの旅には、衣食住の情報があまりに少ないのです。しかし生活というものがあったはずです。
 
こうして、多くの人物像が並ぶと、どこかに自分はいるはずです。え、自分のようなタイプは見当たりませんか。そのような時には、きっとどこかに紛れているのです。「十字架につけろ」と叫び続けた群衆の中に、自分だけじゃないんだぞと隠れるように鬱憤を晴らしている一人として、きっといるのです。


Takapan
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