欺瞞の福祉経済への警告
チア・シード
すでに21章から、イエスと弟子たちはエルサレムに入城しています。当局がイエスの言動に目を光らせています。イエスは時に、群衆が盾となって守るようにして、当局の攻撃を躱し、教えを告げ続けます。特にいま、終末の出来事を話、これから先世界がどうなるのかを説いていました。でも次の段階へと進むためには、ある事件が必要でした。
イエスが十字架で命を捨てて、すべての人の救いを実現するということです。この過越祭を前にして、自分が十字架につけられることを、もう伝えています。当局のメンバーがその企みを相談していたことも、マタイは説明的に加えています。ただ、弟子たちの直接的な反応は、ここには描いていません。慣れて、もう驚かなくなっていたのでしょうか。
そして「さて」と区切ってから、ベタニヤでの出来事をここに記します。イエスはそこに宿をとっていたようです。この事件は、「規定の病を患っているシモンの家」で起こりました。そこに現れた「一人の女」については、他の福音書も何らかの記述があります。正に「この人のしたことも記念として語り伝えられる」ことになったのです。
これがマルタの姉妹マリアだという人もいれば、マグダラのマリアだと見る人もいます。どれも想像です。「極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って近寄」ってきました。何のためにそれほどの香油を必要としたのでしょうか。まるでイエスの葬りのためのみであるかのようです。「イエスの頭に香油を注ぎかけた」のは何故でしょう。
メシア、つまりキリストとは、油注がれた者という意味です。イエスへの信仰告白のようです。ただ、それほど香油まみれになったのなら、辺りの匂いはとてつもないものであったことでしょう。その後の食事から逮捕、裁判といった場面でも、周りはたまらなかったのではないでしょうか。濃い香水の匂いは、街中でも異様に感じることがあります。
十字架でも、香油の匂いが漂っていたかもしれません。「何のためにこんな無駄遣いをするのか」と弟子たちは憤慨しました。でも私には、文化への助成費を止めて産業を回せ、と批評する日本人を見るような思いがします。尤もらしく聞こえもしますが、人が生きるための大切なことを見失っていませんか。建前だけの福祉など、欺瞞でしかありません。