常識外れ

チア・シード

マタイ26:6-13   


香油をイエスに注いだ出来事が実際にあったのはほぼ間違いないでしょう。しかし福音書により、その叙述が異なっています。マタイは、マルコの記録をかなり引き継いでおり、マタイ独自の資料や解釈の気配を殆ど感じさせないものとなっています。さすがにヨハネは、これを特定の人物に定めるなど思い切った記し方をしているようです。
 
ここはマルコと少しだけ比較を試みます。マルコの食事の席が省かれています。規定の病のシモンの家での食事に、律法を重んじるマタイがためらったのではありませんか。汚れた者と一緒に食事はできないはずだ、と。マルコの三百デナリオンという具体的な値を、マタイは、単に高く売るというふうにぼかしています。
 
貧しい人々に対して良いことをできるというマルコの「良いこと」の部分をマタイは略しました。直前の、施す話で説明したと思ったか、それとも施すことを即座に良いことと考えない山上の説教を気にしていたのか、いろいろ考えてみるのも面白いでしょう。マルコは、この女ができる限りのことをしたと言いますが、マタイはそうは言いません。
 
マタイは、自分が書こうとする時に心に引っかかる点を悉く修正していこうとしているように見えます。それでも、およそマルコの調べ記したことをそのまま受け止めているようには見えます。ヨハネにしても、大きく異なる内容ではないように見受けられますから、出来事としてはかなり信頼性が高い記事だと考えたいものです。
 
金額のことを問題にするのは、この女を困らせることになるように気がします。この「人」と訳していますが明らかに原語は「女」です。果たして女は、本当にイエスを葬るためにと考えていたのでしょうか。イエスはこの女の行為が後世語り継がれるだろうと言っていますが、事実二千年後にも語り継がれて知られるようになりました。
 
油注ぎはメシアの象徴行為と言えますから、この良き知らせの伝えられるところへ、イエスがメシア、つまりキリストだと宣言したことを表すと私は考えてみたいと思います。女から注がれること、子ろばで入城すること、イエスの王たる姿は、従来の王の即位の形と比べて常識外れです。さらにこの油注ぎ式は、重い病人の前で行われたのでもありました。


Takapan
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