12人の弟子たちの分かれ目

チア・シード

マタイ26:47-56   


「十二人の一人であるユダ」。どんな十二人かというと、もちろんイエスの選んだ十二弟子、使徒たちです。それは12人であって、12人ではありません。ここで十二軍団とあるように、イスラエル全体をその部族数で現す数字であるし、あるいはそこから救われるべき人間のすべてを意味することのある数字、いわゆる完全な数の一つです。
 
ユダを除外していない状態で、ユダヤをいまだ弟子としてカウントしています。これが、後に復活のイエスと会う場面では、11人の弟子たちとなってしまう(28:16)となってしまいます。イエスの復活の恵みに与ったのはすべての弟子たちではなかったということです。十字架を境目として、羊と山羊とを分けるように、運命は分かれてしまうのです。
 
「イエスを裏切ろうとしていたユダ」。引き渡すユダが顕示されます。ユダの肩書きが一変してしまいました。捕縛のために合図として決めていたのが、接吻。情愛を示す挨拶が、裏切りのサインというのはなんとも気分が悪いものです。現代とは違い暗がり故、確実に将を射るためのひとつの方策としては、接吻も当然のことであったと言えるでしょう。
 
「先生、こんばんは」とは「喜べ、ラビ」という語。もちろんただの挨拶に意義をもたせるつもりはないですが、裏切りが喜びであるとは、私たちは甚だ苦痛を心に覚えながら、これを聞くしかありません。但し私たちとて、ひとに不幸を言い渡すのに、笑いや皮肉を以て告げるということがあります。ユダの姿に己れを見ることも大切だと思います。
 
大祭司の手下の耳を一人が切り落とします。聞こえないようにでもするつもりなのか。しかしイエスはこれを諫め、剣は適切な手段ではないと宣言します。武力で暴力的に制圧する現代社会の有様をふと思います。それに対して神の言葉という剣は人を刺しますが、生かします。神の言葉は古い人を殺し、新たな命に生かすのです。
 
イエスは群集について、滅びてしまうと判断しました。この暴力は何か。神の言葉を聞いたのにこういうことをするのか。イエスは逃げも隠れもしません。預言者たちの言葉つまり神の言葉が正しく実現するのを私たちは見るでしょう。それを身を以て知ることになるでしょう。イエスの弟子たちもそれを覚ります。12人が11人となり歴史が変わりました。


Takapan
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