私への三つの命令

チア・シード

マタイ26:36-46   


ゲッセマネの祈りの場面です。人は、このイエスの祈りに注目します。もちろんそれはそれでよいのです。私の思うようにではなく、神の心のままに。キリスト者の範として、心に納めなければなりません。それでよいのです。けれども、それは実際難しい祈りでしょう。また、見失うものがないかと案じます。そう、眠りこけている弟子たちのことです。
 
変貌山のあのイエスに使命を受けて従った三人が、またこの最後の祈りの静寂の場にも呼ばれました。イエスは三度、彼らに声をかけます。まず、ここに座っていよ、と。何もする必要はありません。ただその場にいよ、ということです。共に目を覚ましていよ。これもいわば、何もしなくてよいのだということを意味します。
 
しかし、弟子たちは目を覚ましていられませんでした。イエスは戻ってきて、そのことを指摘します。そこで、今度は目を覚ましていよ、というだけでなく、祈っていなさい、と命じました。祈れというのです。私たちがその弟子であったら、少しは主に近づき、信頼されたと思ったかもしれません。少しばかり自己愛的な見方のようですが。
 
あるいは祈りを通して、イエスとつながっているように、ということを求められたのでしょうか。君たちにも役割がある、と教えているかのようです。誘惑はいつでもやってきます。それで三人は、またしても眠りに落ちます。もうイエスの祈りの言葉を、誰も聞いてなどいません。イエスは三度目にまた戻ってきます。呆れたでしょうか。分かりません。
 
時が来ました。イエスは罪人たちに引き渡されるのだと告げます。これは、裏切られるという語と同じ表現です。イエスの時がここに始まります。この言葉の重なりが重く響きます。イエスは弟子たちに、立て続けにまとめます。それが「立て、行こう。見よ」です。この三つの言葉が、弟子たちに最後に告げ、命じた言葉となります。
 
これらは、間違いなく読者、そしてこの私に向けられています。「立て」は、復活を意味する場合にも使われる語です。行動を起こすための言葉です。「行こう」とイエスの場面に私を誘います。決定的に重要な場所へ導くのです。「見よ」とイエスは、目撃者になることを促します。それは証人であり、後に殉教者をも表す言葉なのでした。


Takapan
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