罪が赦されるための契約の血
チア・シード
マタイ26:26-29
一同は食事をしていました。この中に、ユダがいたのかいなかったのか、マタイは明らかにしていません。よく見ると、ユダが消えていったことを示すのは、ヨハネ伝だけです。マルコが記していないのを、マタイもルカもそのまま踏襲したのでしょうか。ユダはもはや「一同」の中にカウントされない、とするのが分かりやすいと思います。
ユダが、イエスの祝福したパンと杯を与っていたのか、という問いがあります。また、そもそもユダは何のために登場したのか、など、考察の余地はいろいろあるでしょう。ユダの存在の位置づけには、様々な見解があります。しかし恐らく福音書記者たちは、そして初期の信徒たちもまた、そのようなことに関心を払っていなかったのではないでしょうか。
ここにあるのは、イエスの体であるというパンと、イエスの流す契約の血である、ぶどうの実から作ったものです。神の国で「共に新たに飲む」前の最後の杯です。この血は契約のためのものです。旧約の規定からの伝統を受け継いでいると見るべきか、このイエスの契約を見越してそもそも旧約の律法が造られていたと見るべきか、私には分かりません。
神は先手をも採るのか後手に回るのか、ということです。杯の方が、説明が詳しくなされています。動物たちの血が、量り知れないほどに、イスラエルで流されてきたことでしょう。本当に記述通りにそうなっていたのか、私は知る由もありませんが、ソロモンの献堂式のときだけでも、信じられないくらいに血が流されていることが窺えます。
イエスはこの後、血を流すことになります。十字架の上で、無惨に殺されるのです。その血の量は、動物たちに比べれば、限られた量であるかもしれません。けれども、万の動物の血を無にするかのような、イエスの血が、いまもなお私たちの罪を赦しているわけです。それはすべてを超えた無限の量のようです。このことは、何を意味するのでしょうか。
私たちの罪が、いったいどれほどの大きさであるか、それを悟った方がよいように思います。この現場での弟子たちは、そこまで知ることはありませんでした。ただ、福音書を書きながら、記者は泣き濡れていたのではないかと想像します。イエスの痛みには及ばないながらも、何かしら痛み入るとでも言うような感覚を伴っていたのではないでしょうか。