まさかの言葉が過去に凍りつく

チア・シード

マタイ26:20-29   


まさかわたしのことでは。マルコはこれを弟子たちに代わる代わる言わせていただけでしたが、マタイはユダだけで単独に言うシーンを描きました。弟子たちが何も分からず戯れ役で終わらないよう、ユダ個人のすっとぼけた悪辣な点を示そうとしているかのようです。
 
しかし、そう描くと逆に、弟子たちがどこか超然と構えたエリートのようにも見え、恰もそれが新しいファリサイ派であるかのようにも見えることがあります。偏見でしょうか。その後のキリスト教の歴史は、現代においてまでも、私は新しいファリサイ派を生んでいるように思えてならないことがあるのです。
 
キリスト教の歴史は、新約聖書を編纂するにあたり、このマタイの福音書を冒頭に掲げました。これを最も看板にするに相応しいと判断したわけです。そこにも、すでにこの欠点のない優秀な弟子たちという信徒のリーダー像をモデルに掲げる心理が影響しているようにも思えます。
 
食事は、互いの交わりの場であり、仲間であることの証しでした。その場で先ずイエスは、裏切るであろう誰かのことを持ち出します。心異なる者は、最後の晩餐の席には相応しくなかったのです。それでカトリックなら秘蹟と呼ばれる儀式の根拠となる場から、ユダを追い出しました。これもまた、エリート意識の範疇の措置なのかもしれません。
 
生まれなかった方がよかった、とイエスはユダに言いました。現代の私たちからすれば、残酷な言葉です。イエスが言うとは信じられないような言葉です。人権意識を根拠とすればとんでもない暴言です。けれども、当時の状況で端的な事実として言うことは差し支えないのではないかと私は考えます。ユダに与えられた人生は悪い人生だったということです。ほかにも不幸な人はいくらでもいます。
 
ユダは救われたのだろうか、と人権の原理を根底にもつ現代人は不安に思うことがありますが、そもそもそれは詮索する必要すらないことのはず。全員が同じ救いに与らなければならない、という持論をもつ人でなければ、この言葉に引っかかる必要はないとしておきましょう。
 
イエスはここから契約の血について語ります。パンはさして強調されていないように見えます。マルコもそうです。パンを強く打ち出すのはヨハネを俟たなければなりません。マタイは弟子たちを高めるためか、ユダを徹底的に悪辣な存在として描きます。すでに祭司長たちから、奴隷の値段と目される銀貨30枚を得ており、イエスを引き渡す機会を窺っています。その上で、裏切ろうとしているというイエスの言葉に、まさかわたしでは、と返すのです。
 
弟子たちも口にしますが、ユダがわざわざ一人で言ったことが目を惹きます。しらばっくれているとしか言いようがありません。演技なのか、取り繕っただけか。まさか、というユダヤの呟きに対してイエスは応えます。「君は言ったね」と。対話を拒む表現のようです。突き返しています。動詞はアオリスト形です。もう今とは関わりのない出来事なのです。未来へもつながらない、分断された過去として、それは棄て置かれるのです。


Takapan
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