眠りこけはしたが
チア・シード
マタイ25:1-13
神殿の美しさ、見事さに見とれている弟子たちを戒めて、イエスは「世の終わるとき」(24:3)のことを語り始めます。これらも、山上の説教のように事ある毎に口に出していた教えを集めたのかもしれませんが、エルサレムの神殿の滅びを宣する中でこそ似合う言葉である点は確かです。「その日、その時は誰も知らない」(24:36)が前提です。
但し「これらすべてを見たなら」(24:33)その時が近いことを悟るように、と注意を促しています。「目を覚ましていなさい」というのが原則です。イエスはこの「十人のおとめ」の喩えを言うにあたり、「その日、その時を知らないのだから」「目を覚ましていなさい」という心構えを与えたことになります。それが結論でした。
しかし、そのうち半分の「賢いおとめたち」が目を覚ましていたと言えないところが奇妙です。「皆うとうと眠ってしまった」のです。それというのも、迎えるべき「花婿の来るのが遅れた」からです。目を覚ましていられなかったのは、愚かなおとめたちばかりではありません。賢いおとめたちもまた、同様に眠りこけていたのです。
では、何が、別の意味で「目を覚まして」いたことになるのでしょうか。眠りこけていても「目をさまして」いた、というのはどういうことなのでしょう。「それぞれの灯と一緒に、壺に油を入れて持っていた」点だけにしか違いはありません。「花婿だ」との叫ぶ声に、「おとめたちは皆起きて、それぞれの灯を整えた」のです。
しかし、油の有無が運命を分けました。「消えそう」だという愚かなおとめたちの困惑は、自分のもつものでわずかに灯が立ったことを表します。しかしそれは幻のようなものでした。賢いおとめたちは頼まれても油を分けることはできません。油を探しに出る間に祝宴は始まります。主人は「お前たちを知らない」とまで言い、入れてくれませんでした。