問題は日時ではない

チア・シード

マタイ25:1-13   


あなたがたはその日その時を知らない。時というのは神の特異点であるカイロスを用いず、単に日時というだけの意味の言葉を使っています。しかし目を覚ましていよという命令は、よほど弟子たちにとり印象的だったのでしょう、イエスの口から福音書で度々語られます。弟子たちに刻みこまれていた教えであったと言えましょう。
 
福音書が書かれたのはパウロ書簡より後ですが、資料が当然あったものとすれば、パウロもまた、目を覚ましていよという命令を継承していたはずです。やがてくる終末の事態に備えるために必要なことでした。私たちはどういう生き方を求められているのでしょう。福音書も手紙も、そのために書かれたと言っても過言ではないと思われます。
 
主人が帰ってきた時に、忠実に仕事をしていた奴隷の幸いが、先に語られました。通常業務をしていればそれでよい、というようにも聞こえます。いや、イエスが言いたかったのはそれで終わらない、とでも言うかのように、十人の女の話が展開されます。先の話の悪辣な奴隷ではなく、それぞれ適切に、あるいは健気に仕えていたように見えます。
 
単に、いつ客が来るのか知らないために、待ちくたびれてうとうとしていただけなのです。但し、うち半分の女は、準備が不十分でした。同じうとうとしていても、備えがあった方は主人に受け容れられ、油を用意していなかった残りは主人から、おまえたちなど知らない、とまで罵倒され棄てられたのです。横暴な奴隷の話と比べて、可哀相ではありませんか。
 
人々はもまた、神が来る日時を「知らない」と言うのと同様に、主人は女たちを「知らない」と言い捨てます。開けてください、と懇願しますが、その声に対しても応じません。憐れみを求めてよい期間が終わったかのようです。つまりは神の特異な時がもう来てしまったのでしょうか。それにしては、福音書はそれを明確に「時」とは表現していません。
 
花婿が来る、それだけしかここにはありません。「時」というポイントを示すよりも、花婿の存在とその到来に焦点が当てられています。人の子が思いがけず来るという前章のテーゼが生きています。キリストが再び来るという出来事の方を重視しています。日時の問題ではありません。キリストが来るのを待ち、迎える準備を私たちが喜んでいるかどうか、そこなのです。


Takapan
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