終末の徴の中で教会は

チア・シード

マタイ24:3-14   


エルサレムの神殿の立派さを、イエスに賛同してもらいたかった弟子たち。しかしイエスは、見とれているこの神殿の崩壊を告げました。弟子たちは、このイエスの言葉を理解しようと温めていたに違いありません。すぐにではありませんでしたが、「イエスがオリーブ山で座っておられる」ときに、いつそんなことが起こるのですか、と尋ねます。
 
座るとは、何かを教える姿勢だと思われます。「いつ」なのか、そして「どんな徴がある」のか。イエスは「いつ」については、ついに答えませんでした。この後「その時」を幾度となく繰り返します。神の介入の時ですが、それは人間の暦の「いつ」には当たらないのかもしれません。しかし「徴」の方については、ふんだんに語ります。
 
それも、注意するべき戒めからまず突きつけます。「人の惑わされないように気をつけなさい」と。惑わせるのが「人」であることにまず目を留めましょう。悪魔ではないのです。人が、イエスの名を騙る。しかも「大勢」だといいますから厄介です。「私がメシアだ」と豪語する。まさかそんな人が本当にいるものだろうか、という気もします。
 
しかし実際何人もそう言った者がいます。それでも「大勢」なのか。そうです。大勢です。キリスト教会という看板を掲げ、我々はキリストの言葉を告げ知らせている、と振舞うキリスト教会が、無条件でこのことの例外に立つという保証はないのです。惑わすはずなどない、という思い込みは禁物です。自分のしていることがひとには分からないのですから。
 
さらに「戦争のことや戦争の噂を聞く」ことも「徴」です。このときに使う「戦争」の言葉は、いまの私たちの使うその語の意味と同じではないでしょう。民族や国が互いに「敵対して立ち上がり」もするでしょう。が、こうしたことはまだ「産みの苦しみの始まり」に過ぎません。世界の情勢の変化にうろたえてしまうのは、悪魔の思う壺です。
 
キリストの弟子は苦しみ、殺されもするでしょう。憎まれ続けるはずです。世は裏切りと憎しみに満ち、さらに惑わす偽預言者も現れます。「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える」様は、いまも目に映る世界の姿です。だから耐えよ。福音派その中で「全世界に宣べ伝えられる」のです。「終わり」は福音が伝え尽くされてからなのです。


Takapan
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