時代と時の狭間で私たちは

チア・シード

マタイ24:34-39   


アメーン、私は言う、君に。マタイの小黙示の現象を幾つか並べてきた末に、イエスはこのようにまとめます。せっかく「アーメン」があるのだから、「よく(はっきり)言っておく」の訳がもったいないような気もします。天地が滅びても主の言葉は滅びない。時代が滅びないというのは、なんだかよく分からない言い方のようにも聞こえます。
 
イエスが弟子たちに語った場面では「時代」はまさにそう言っていた時代のことでしょう。福音書が書かれたときには、書かれたその時代、教会が置かれていた時代を指すように受け止められたはずです。だとすれば、私たちが今読んでいるのならば、まさに私たちが置かれたこの時代のことと理解するしかないでしょう。
 
聖書は、そこに書かれてあるだけのものとして、意味を一つに限定しないもの、というのが私のスタンスです。一人ひとりに違った意味で聖書は語りかけ、神の言葉を突きつけます。だからまた、言葉は古びないし、滅びないのです。昔話でもないし、時代遅れの思想でもない。その都度、触れる者に神が現れるチャンスをもたらし続ける言葉なのです。
 
この世界に、いつか特異な時が来る、と聖書は告げます。しかし「その日、その時」はカイロスのことではありません。むしろこの時の流れの中のどこかに自然に位置するであろうような、普通の感覚のカレンダー的な日付を指摘しているように見えます。誰も知らないというから、神のもたらす時季を予め人が知ることができないもの、と教えています。
 
ノアの時のように、イエスは再びこの世界に来るといいます。ノアだけが、洪水が起こる日を知っていました。いえ、ノアにしてもその日を予め知り計算していたのではありません。神にただ命じられるままに、箱舟を造っていただけです。日々与えられる仕事を淡々と続けていただけでした。それが完成した時、それを神は定めの時としたに過ぎません。
 
ノアは神を待たせていました。滅びのからくりについてノア自身は気づくことがありません。私たちは、時を知らないといっても、ここで食べたり飲んだりして水に呑まれることとなった人々に比せられているのではありません。むしろノアの立場にいるとしましょう。時が来ることを知っているが、いつかは知らない。ただ任されたことを愚直に続けるだけです。


Takapan
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