世の終わりのストーリー

チア・シード

マタイ24:3-14   


神殿の建物に見とれている弟子たちに、それが空しく崩れ落ちることを予告する、という形で、イエスが終末の出来事を語ります。マタイはまずこのシチュエーションを設定しました。このことを弟子たちは気にしていたので、後で機会を得てイエスに質問をします。それはいつのことなのでしょうか、と。
 
神殿が崩れる時を、世の終わりだと判断した弟子たちは、ある意味で見事な対応をしたと言えます。マタイの描く弟子たちは、なかなか立派です。ここでは、その世の終わりの兆候を知りたい、とも尋ねました。ただし、密かに。それに対してイエスは、開口一番「人に惑わされるな」と答えました。これが肝要です。
 
騙すのは、人なのです。神ではありません。キリストを名のる者が多く現れるそうです。そんなバカな、いくらなんでもそんな偽者に引っかかる人がいるかしら、と思うかもしれませんが、歴史がこれの正しいことを証明しています。そして現に今もなお、メシアだと自称する者が現れて騒ぎになっています。有名な伝道者を崇拝するのも近いものがあります。
 
世は終わる。いま戦争という形は、マタイの想定していたものとはすっかり違うものになってしまいました。同じ言葉を用いても、その実情も与える印象もまるで異なる時代に読まれることまで、マタイは考えていなかったことでしょう。けれども神の中では想定内だったと思われます。敵対する人間たちの歴史など、すべてお見通しだったはずです。
 
しかし、それはまだ発端に過ぎません。あなたがたは殺されます。現実にそうなります。迫害は記者の目の前でも起こっていること。殺されるがままで、何の福音だというのでしょう。憎まれて不法がはびこって、何の福音なのでしょう。愛が冷えると言ってもロマンチックに聞こえるかもしれませんが、真実の愛がそれによりなおさら際立ちます。
 
真実の愛は死をも超えるものです。マタイだから、そこには律法の完成する世界を思い描いているに違いありません。偽者が現れるからそれに惑わされるな。動かされることなく堪え忍べ。教会の中にもそれは生じることだ、と私たちは考える必要があるように思われます。かといって仲間を疑心暗鬼で見てばかりいるのもどうかとは思いますが。
 
全世界へ、つまり異邦人たちへも、この福音は拡大するというのがマタイの見る幻です。ユダヤの法が、異邦人世界にも浸透していくのです。マタイの律法重視は、ユダヤの領域に制限されるものではないと思われます。ここから終末の出来事がさらに描かれますが、マタイはまずはアウトラインを示して、神の計画を垣間見させているのでしょう。


Takapan
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