誰のために嘆く

チア・シード

マタイ23:37-39   


掟の核心やダビデの子としてのキリストを明らかにすることによって、イスラエルの律法の過去をイエスは振り返ります。そこから、エルサレムの未来と終末へ目を向け、流れをつくるのです。しかしこのとき、イエスはエルサレムの今を見つめます。マルコはこの視点を置きませんでした。
 
イエスは今、エルサレムのために嘆いています。神がこのエルサレムをどのように見ていたのかを明らかにするのです。何度この主の御手の中に集めようとしてきたか知れません。神はそれほどにこの民を愛してきました。けれども、飼い主のいない羊のように、正しい指導者を失って迷う群衆を憐れみます。主の眼差しが、どうやっても応じないイスラエルのエリートたち注がれます。
 
ろばの背に乗り王としてエルサレム市街に入城したイエスは、王位に就くべく幾つかの過程を果たそうとしているのですが、そんな王の地位など認めまいとする官僚たちが立ちはだかります。地上に神の国を建てるという人々の期待が、次第に裏切られていくようになります。イエスは、もはや地上の国の変化ではなく、完全な裁きの行く末という、人々の思う政治とはかけ離れたところに行ってしまいます。
 
ローマに対抗して、かつての歴史の中のイスラエルが奇跡的に回復するような期待から、民衆はイエスを迎えたのでした。民衆の心がイエスから離れていく準備が調います。現在の政治的な国家の回復と繁栄を願う人々の心は、イエスから遠くなっていきます。イエスは詩編の預言を用いて、将来再び神の子が来る時のありさまを指し示しますが、人々の心には通じません。
 
弟子たちですら、この時まるで分かっていなかったのです。弟子たちも、イエスが地上に神の国を建てるものと期待して、ここまで付き従ってきたはずでした。これまで奇蹟を起こしてきた。パンを増やし、自然をも意のままに操ったイエス。さあ、いよいよエルサレムにて、あの力を発揮してもらおう。驚くべき業を示して、奴隷のときにエジプトから出たように、このローマの圧政から導き出してくださるお方は、ほかにはないのだ、と。
 
その矢先、当の主イエスが、エルサレムはもうだめだ、と口にしたのです。希望のない発言を聞いて、弟子たちはどう思ったでしょう。この後イエスが捕縛されるにあたり、弟子たちは師を捨てて逃げ去ります。それを一種の裏切りと呼ぶこともできますが、そもそも弟子たちは、端からイエスと同じものを見てはいなかったのでした。見ている方向が、景色が、違ったのです。私たちの視界は、どうなのでしょうか。


Takapan
びっくり聖書解釈にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります