考え直す

チア・シード

マタイ21:28-32   


これはマタイ独自の記事です。但し、この前後の話はマルコにもあります。バプテスマのヨハネの権威についての、おそらくサドカイ派中心の関係者との問答と、ファリサイ派を含めてぶどう園の農夫のたとえとの間に、マタイのもつ資料にあった記事を挟んだわけです。ここに意味があります。この二人の息子のたとえにおいて「あなたたち」と呼ばれているのは、こうしたユダヤの指導者たちだったわけです。
 
イスラエルの伝統では、ヤコブやエフライムのように、弟のほうが逆転的に優遇される話が多く、ヨセフやダビデ、ソロモンのように末っ子のような立場の物が上に立つストーリーが目立ちます。ところがこの二人の息子のたとえでは、弟のほうがよろしくない態度をとったとされています。これは古い写本者もおやと思ったのか、写本により、この兄弟関係が錯綜しているようで、最近も底本上で変更され、口語訳や新改訳では新共同訳とは逆の台詞に入れ換えられています。
 
いったいこの兄と弟はどちらが本当なのか。原文を見ると、ここには兄・弟という語ではなく、第一の者・第二の者という呼び方がなされています。兄だ、弟だ、という立場に私たちはあまりにこだわっているような気がします。まず第一の者に父は呼びかけ「否」という返事を受けます。これを聞いて父は仕方なしにか第二の者に同様に呼びかけると、こちらは承知した返事をしました。父の行動としては、無理のない設定です。
 
ではこの後二人はどうしたか、というと、「否」と口で言った第一の者は、考え直しました。後悔したという訳もあります。そして父に従う行動を起こしました。第二の者は、結局行きませんでした。この二人は、どちらも完全な従順を示したとは言えません。しかしこのユダヤのエリートたちは、どちらがよいのかと尋ねられると、一致して、行動したほうだと答えました。私たちの評価は一定なのです。ひとはそう捉えるのです。
 
イエスはその判断の是非は実は示していません。告げたのは、徴税人や娼婦たちがエリートたちより先に神の国に入るということです。エリートたちは非難されているのです。律法を守り行っているとの自負があり、イエスに救われる人々を見下している面々です。ここから、律法の呼びかけに従えなかった側にいる、徴税人や娼婦たちが浮かび上がります。しかし彼らがイエスに従います。律法という言葉に応じられない者が先に救われるというのです。
 
イエスが非難しているのは、「後で考え直して彼を信じようとしなかった」エリートたちです。つまり、このたとえで「考え直して出かけた」という人物は、現実には存在しない、仮想の人物なのです。たとえが現実の誰かを意味している、と思い込んだとき、このたとえは分かりにくくなります。エリートたちは、まだ考え直していません。だから、この第一の者ではないのです。ところが地の民たちは、考え直した、つまり悔い改めたのです。
 
マルコは、後の教会の中心たるイエスの弟子たちにも文句を言いますが、律法とは違う次元の旅を求めますから、律法のエリートたちに対する厳しさは見かけ以上です。しかしマタイは、律法はそれでも重要だという考えから離れることができません。エリートたちに、まだ考え直す道をこのたとえで遺していました。地の民たちは「あなたたちより先に神の国に入る」と予告しています。あなたたちは入れない、とは言っていないのです。エリートたちを排除はしていないのです。考え直すこと、悔い改めること、その道は誰にも開かれています。


Takapan
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