いちじくの木

チア・シード

マタイ21:18-22   


エルサレムに入城し、証人の台を蹴り散らかしますが、子どもたちの賛美を浴びて、ベタニアに戻ります。翌朝、イエスは再びエルサレムに入り、多くの教えを施していくことになります。その途中の不思議な出来事が記録されています。空腹を覚えたイエス。こんな記述は、荒野の40日のときだけです。悪魔に打ち勝ったイエスは石をパンに変えませんでした。
 
今度はそこにいちじくの木がありました。そして空腹のイエスが、そこに実がないかと探したというのです。過越祭を控えたこの時季、いちじくに実を求めるのは無理だと言われます。初夏か初秋に実るそうなので、春先に実を求めるのは理不尽というものです。時ならぬ時に結実を期待しても実は得られないでしょう。
 
そこでイエスはあろうことか、いちじくの木を呪います。マルコによると、枯れていたのを翌日発見するのですが、マタイはたちまち枯れたと記しています。弟子たちはその枯れる様を目撃したのでしょうか。どんなふうに枯れたのでしょうか。まるでマンガです。死者たちの復活など、そのままの画を想像するとマタイは実に不思議な情景を描きます。
 
このいちじくの木は、象徴的にイスラエル民族を表すとも言われます。だからこのエピソードも、象徴的にイスラエルのことを教える教えなのだ、という理解も昔からありました。ここでは弟子たちに向けて、疑いの混じらぬ信仰をもつならば山も動くほどの力を働かせることができる、と教えました。信仰の力は不思議な働きを現実のものとするのです。
 
求めるものは何でも得ることができる。何でも、といえるのかどうか私たちは自身がもてないものですが、これを言いたいがために、気の毒にいちじくの木は理不尽な要求に応えられなかったことで、神の子に枯らされることになってしまいました。石を自分のためにパンに変えなかったイエスが、実のないいちじくの子をいとも簡単に枯らしたのです。
 
やはりこれは呪いです。これが信仰の力によるものと言ってよいのでしょうか。でも、弁神論を始めるつもりはありませんが、これはただの呪いではないような気がします。「今から後いつまでも、お前には実がならないように」とイエスは言ったのです。おまえはもう終わりだ、と。この記事の前後に置かれたのはどういう内容だったのか、目を向けてみましょう。
 
いわゆる宮きよめの記事が前にありました。この後には、権威についての問答、招きに応じぬイスラエルを示す話、あまつさえ主人の息子を謀殺する農夫といった、イスラエルのエリートたちの自己肯定と他者蔑視に明け暮れている姿ばかりでした。飾り立てた葉だけがあって、実りのない姿です。これは誤った神の言葉の理解はもう終わりだ、という意味では。
 
こうして、律法を守ると自称する自分たちが、律法を守れない人々を虐げ、その人々を護ろうとした者に向け昂奮し、死刑にせよと叫んだ者の姿を聖書は映し出します。こんなのは枯れてしまうのだ、と。この「律法」を「新約聖書」と読み替えたとき、同じようなことをしている、自称クリスチャンが、たくさんいるような残念な気がしないでしょうか。


Takapan
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