エルサレム入城のとき私は

チア・シード

マタイ21:1-17   


目的のエルサレムに着きました。共観福音書はエルサレムにイエスがこのとき初めて来たような書きぶりです。ヨハネはおそらく三度目ですが、このような歓迎を受けたのは最後の時だけです。おそらく共観福音書は、ストーリーを明確にするために、一度きりに描いているのではと思われます。必ずしも初めてとしなければならないことはないように感じます。
 
弟子たちはしばしば二人組で行動させていましたから、ここでも二人がろばを調達に出ます。ろばに執着した記事がどの福音書にもあるので、史実とみてよいでしょう。ローマ軍のような馬でなくろばだからイエスは謙遜だ、と読むことも可能ですが、ここはソロモンの油注ぎが関係していると言えましょう。ダビデのろばに乗り、ギホンの泉にろばに乗っていき油を注がれる記事があります。
 
つまり、これはイエスの即位を伝えるのです。旧約という文化を背負うイスラエルの人々にはそのように間違いなく伝わります。いまイエスは王となり、人々もまた王を迎える祝祭を演じます。このようにイエスを心に迎えるというのが、クリスチャンの救いであり、イエスとの出会いであったことでしょう。私たちは、イエスに自分の王になってもらったはずです。
 
エルサレムの人々は、イエスに王になってもらおうとしました。何の王でしょう。イスラエルを復興する王です。ローマ帝国の支配を受け、民族の誇りも伝統も傷つけられた民が、かつてのダビデ王のときのように、世に轟く王国の開始を見ようとして、イエスに期待していたのです。しかし、これがやがて崩れます。期待はずれだと見切りをつけた民衆は、イエスを十字架につけろと叫び続けることになります。
 
自分が、メシアとはこういうことをしてくれるはずだ、と枠に嵌めていたと言えます。あるいはまた、世の権力がそのイエスを否定するときに、その世の権威に呑まれてしまったのであり、他の民がイエスに反発する声が高まるとそれに逆らえず同調して、イエスを攻撃する側にまわってしまったのです。
 
シオンよ、おまえの王だ。そう告げるとき、群衆を抱えるシオンの丘は、教会を表しているようにも見えてきます。シオン全体がイエスを否んでしまうストーリーは、教会が背反していく姿と重なってこないでしょうか。祝福を当初叫んでいた人々の裏切りを、教会がでんと構えて他人事と見ている場合が殆どですが、果たしてそれでよいのでしょうか。
 
イエスはこの直後、世の欲のため、ひいては自分のために、神さえも利用しようとするかのような商売を蹴散らします。これを暴力的だなどと怪しむ人がいるでしょうが、これは暴力云々の問題ではないと思います。神を敬っているかのように店ながら、その実自分の儲けや得のことばかり計算している者は、私の姿と違うと言えますか。恰好のいいことを言いながら、結局自分可愛さを優先することは、ありませんか。その時私は、台や腰掛けと同様、イエスに倒されているのです。それのほうがわたしより大切なのか、と。
 
民衆はそのイエスに期待をしていたから、猛烈な歓迎を見せました。しかし自分の決めた枠のように働いてくれないイエスに気づくと、イエスに背を向けるばかりか、殺せとヒステリックに叫び続けました。かつてイエスを王として迎えた私が、この方こそ自分に何か益をもたらして下さると期待していたのだとしたら、自分の願いの実現に力を出してくれない神に、期待はずれだと放り出すような真似をしていないか、よくよく省みるとよいでしょう。
 
しかし他方、子どもたちの唇には賛美がありました。神の国は子どもたちのものでもあるという言葉を私たちは思い起こします。そのときイエスは、能力が欠けたとされる人々を最後まで癒していました。ここの図式をキリスト者は案外見ていません。イエスに、実は自分の利という期待を勝手に押しつけていた群衆ととは対比的に、神の国がこっそりすでに実現していたということに。イエスは子どもたちの声が「聞こえる」と言いました。私たちは、イエスに聞こえる声を発しているでしょうか。


Takapan
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