仕える者となれとのみ言う

チア・シード

マタイ20:20-28   


マルコと違い、マタイは二人の母親が余計なことを申し出たことにしました。弟子たちの汚点を残したくなかった、というのが通説です。マルコは弟子たちに対してなかなか手厳しいのですが、マタイは弟子たちの権威を保とうというスタンスにいます。私はいま、マタイの見解に従うものとし、これらを比較して史実を探ろうなどとは考えません。
 
イエスは、自らの十字架の刑死と復活を告げています。三度目の記載です。その復活を重視したのならまだよいけれども、「その時」に、ゼベダイの息子たちの母がイエスの前に出て来ます。ヤコブとヨハネはどんな顔をして、この母親の様子を見ていたでしょうか。主の御国で、これら二人の息子を、いわば右大臣・左大臣に就けてくれと言うのです。
 
私たちキリスト者から見たら、なんとも的外れな、勘違いも甚だしい申し出だと言わざるを得ません。けれども、これを嗤うことが果たしてできるのでしょうか。私たちは、イエスの言葉を的確に把握していると言えるのでしょうか。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない」とイエスが言ったのは、母親に一人に向けたとは思えません。
 
「あなたがたは」と指しているのです。この母子のことなのさ、とまだ冷ややかに見ていられますか。私は分かっているんだよ、という思い込みこそが元凶です。イエスの杯を飲むことができるか、と訊かれて、できると公然と答えたことに対して、イエスは冷ややかに、確かに飲むだろう、と認めます。イエスの仕掛けにも厚顔の態度だったのです。
 
但し「飲むことになる」という言い方をイエスはしました。「できる」とのレベル差を見抜きたいものです。望むべくして可能だという姿勢とは違うことになる、とイエスは突きつけたのです。どうであれ、神の国での地位なんぞ、イエスがとやかく決めることではない、と言って、母と子の欲望を承認することはありませんでした。
 
他の十人は、この事態に、二人に対して腹を立てました。イエスの真意を汲み取ってのことではありません。「偉くなりたい者は、皆に仕える者となり、」「頭になりたい者は、皆の僕になりなさい」と教えます。イエスが世に来たことに倣うのです。私たちキリスト者は、二千年間、この命令にちっとも従っていないのではないのでしょうか。


Takapan
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