母の愛情を覚えつつ

チア・シード

マタイ20:20-28   


仕えることについての逆転の発想。キリスト教徒はあまりにこのエピソードを聞きすぎて、もはや何とも感じていないかのように見えることがあります。でも、やはり大したことです。だのにいつの間にか私たちは、この弟子たちを愚かだなぁと見下してしまっています。まるでクイズの答えが分からず苦しんでいる解答者を見て優越感を覚えるみたいに。
 
私たちの、どこが弟子たちに勝っているというのでしょう。生活のすべてを捨ててイエスに従っていた弟子たちに、寸分の隙も許さないとでもいうのでしょうか。思い上がった瞬間、私たちは果てしなくイエスの心から離れてしまいます。神の願いと逆方向に走り出してしまいます。私は弟子たちの足許にも及ばない、不従順な者だとは思えないのでしょうか。
 
何をしてほしいのか。盲人に対して問うたのと同じ問いが飛んできます。私たちは、この母親以上の敬虔な答えを返せるのでしょうか。いくら女が社会的人格が認められていなかった時代背景があるにしても、母として、自分の救いや誉れを求めず、自分を第一とはせず、ひたすら子の幸せだけを願う気持ちを蔑む資格は、私にはありません。
 
もちろん、マルコでは弟子本人が願っていたのを、マルコのように弟子批判をするのを嫌うマタイだから、母親のせいにしたのだ、ということも考慮すべきです。それでも、母親の必死の願いを私たちが見下すようなことはしたくないと考えます。私たちの母親もまた、そのように私たちを大切にしてくれたのではなかったでしょうか。
 
イエスは、あなたがたは分かっていない、と言いました。マルコならよいのですが、母親ひとりが願った場面で「あなたがた」は不自然です。なるほど、母親の背後でこの兄弟も、ぜひぜひと頭を下げていたのかもしれません。この後、自分の杯を飲めるかと問われて弟子たちができますと返すあたり、母が不在になっていてよいのか、マタイに訪ねたい気もします。
 
親の愛が如何に偏っていたにせよ、そしてイエスの教えを勘違いしていたにせよ、この母親もまたイエスに従っていたのだし、あるいはイエス一行の生活の世話をしていたのだとすれば、なおさらイエスも一定の敬意を払っていたのではないかと想像すると、この母親の思いやりについて厳しく咎めるだけというふうにはなかなか考えられないのですが。
 
この世は、高い地位にあり権力を得ることで人生の目的を果たすことができる、というような価値観に支配されています。でもイエスは違います。そして私たちに求められているのも、仕えることです。何を求めているか。仕えることです。そう応えられるだけの信頼をイエスに対して有しているか、問われます。ひとに要求するのでなく、自分が動くことです。


Takapan
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