ヨセフは理性的であったが
チア・シード
マタイ1:18-25
「イエス・キリストの誕生の次第はこうであった。」は、新約聖書の冒頭ではありません。カタカナだらけの「系図」がまず目に入ると、読む気が失せるというのが実情ではないかと思います。人を新約聖書に近寄せない壁となっているかもしれません。そこで実質、かの言葉が、聖書のスタートを切る言葉だ、ということになります。
この福音書は、イエス・キリストの誕生から始まるのです。イエスがキリストである、ということはと告白するのが、キリスト教信仰というものです。しかし世間では、「イエス・キリスト」と呼ぶ名称がただの固有名詞になっています。姓名ではありません。イエスがキリスト、即ち約束された救い主であった、という信仰告白を示しているのです。
イエスの誕生については、マリアとヨセフの登場の場面から説明が始まります。マリアが主語です。ヨセフと婚約していましたが、「聖霊によって身ごもっていることが分かった」といいます。どうして、どのように、「分かった」のかは謎です。そこを知りたいと思うのですが、神学者も教えてくれません。永遠の謎であるようにも感じます。
夫のヨセフの迷いは当然です。村上春樹の『1Q84』の天吾は、久しぶりに青豆が孕んだ子が自分の子だと言われて、すぐに信じました。これはヨセフ以上の信頼でした。ただヨセフが、可能な限り理性的に振る舞ったのは事実です。果たしてそれが信仰からくるものであったのかどうか、私たちはそこに関心をもちますが、理性も重視しましょう。
ヨセフの行為が、理性からくるものであってもよいと思うのです。ヨセフのスタートは、そう考えても悪くなかったでしょう。但し、理性では、解決はベターではあっても、ベストにはなりません。神は聖霊によって、天使という姿でヨセフを導きました。「恐れずマリアを妻に迎えなさい」と言い、「その子をイエスと名付けなさい」と告げたのです。
ヨセフはその言葉を守ります。罪から救うというその名は、ユダヤでは必ずしも珍しいものではありませんでしたが、主が共におられるというあり方で、使命を全うすることになります。ヨセフは自分の考えだけには固執せず、天使から告げられたことに逐一従いました。ヨセフが、目覚めて起きてからのことでした。ヨセフは新しい人生を得たのでした。