新しい創世記

チア・シード

マタイ1:18-25   


マタイの福音書は、四つの福音書の筆頭に置かれました。開けばかの系図。聖書を開いた人をうんざりさせるものですが、最初の言葉が「系図」でした。これは「創世の本」という意味で書かれています。「イエス・キリストの創世の本」から、新約聖書はスタートさせるべきだったのです。そして系図に続いて、イエス・キリストの誕生の経緯。
 
この「イエス・キリストの誕生」もまた「イエス・キリストの創世」です。創世記と呼んだほうが正確でしょうか。旧約の創世記に匹敵するものとして、いまイエス・キリストの創世記が始まるのだ、という宣言です。ここに、新たな歴史が刻まれます。人類の新生が始まり、この世界が新しく創造されるようになる。マルコの「福音」を超えた宣言です。
 
マリアはすでに「母」と呼ばれています。「穴を掘る」の表現のように、目的や結果が先取りされているのかもしれません。しかしここに「夫ヨセフ」とあり、ヨセフは決して「父」とは呼ばれません。母なるマリアと、夫としてのヨセフ。しかし系図はヨセフを辿り、イエスはマリアから生まれた、とする。マタイの微妙な匙加減を感じます。
 
ヨセフは正しい人だといいます。婚約者とは関係なしに妊娠したマリアは、律法によると死罪です。律法に従う正しさは死罪ですが、ヨセフはそれを免れる正しさを考えます。同じ律法に従うにしても、婚約ではなかったことにすれば、マリアは不遇な生活にはなりますが、殺されることはありません。それを正しさと呼ぶのでしょう。
 
しかし神は、さらなる正しさを用意していました。もしヨセフが受け容れるならば、ですが。それは、ヨセフがマリアをそのまま迎え入れることです。これは男にとり苦しいことです。どこの誰の子を宿したか分からないのに、その女を約束通り妻に迎えるとは。ホセアの行為を思い起こしますが、ヨセフへ神は、夢という形でこの道を示します。
 
マリアの妊娠は、聖霊によるものと「明らかになった」と言います。誰に対して明らかになったのか。ヨセフに対してのようですが、人々に知られていたら大袈裟なことになっていたことでしょう。だからヨセフひとりの考え方次第で、マリアの運命が変わるのです。しかしそれは、人類の運命を変えることにもなりました。
 
その子にイエスという名をつけよ。罪から救うという意味です。当時ありふれた名です。しかし民を罪から救う、と天使は告げました。この使命感に燃えて、起き上がったヨセフは進み行きます。マリアを妻として迎えよう、と。自分を苦しめる人、しかしその人自身はもっと苦しんでいるかもしれない。その人を受け容れ、迎え入れようとするのです。
 
こうして迎え入れたヨセフの決断は、やがて民を、人類を、罪から救うイエスをこの世にもたらしました。しかし、人間の律法では死罪を免れないと思われた罪人マリアを救いました。そして、自分の運命に迷い疑いさえ差しはさみ、苦悩していたヨセフもまた、そうした神なしの絶望の罪から救いました。読者たる私もまた、キリストに救われるのです。


Takapan
たかぱんワイドのトップページにもどります