自分はこれだけやったんだぞ

チア・シード

マタイ19:23-30   


このペリコーペ(まとまり)には、幾つも示唆のある言葉が見えます。マルコとの小さな差異にも触れますが、まずはマタイで。金持ちが救われることの厳しさが、針の穴を通ることの困難ならくだを持ち出して説明されています。この意表を突く言い回しは、それでも神には何でもできるということを教えてくれます。
 
これに対してペトロが、自分は何もかも捨ててイエスに従ってきた、と言います。金持ちのケースに合わないよとアピールしているかのようです。イエスはそれを認め、弟子たちはいずれイスラエルのリーダーとなると言い、家族や財産を捨てることには大いなる報いがあることを知らせます。永遠の命を受けるが、先と後の者との順番が入れ替わると注意します。
 
この直前で、律法を守る立派な金持ちが、永遠の命を得るために何をすればよいかと尋ねる場面がありました。財を捨ててイエスに従えと言われて、この人は悲しく立ち去ったことを受けて、イエスが弟子たちに話をしたのがここです。テーマが永遠の命であることは明白です。それと、捨てることとの関係が問題になっていると言えるでしょう。
 
しかしこの捨てることは、金に限定はされません。マルコは金そのものにこだわらず、財産という捉え方を示しています。また、マルコは父親を捨てよとは言いませんでした。財産を捨てよとしたマルコにとっては、父親は財産ではないので抜いたのかもしれません。らくだの喩えはユニークですが、昔からいろいろな説明が施されています。
 
らくだの解釈に拘泥さえしなければ、言わんとしている結論は明らかです。しかし、金持ちは神の国に入れないと言ってしまうのもどうかしています。信じたら金持ちになるというのはもっと怪しいですが。金を自由に使えるだけの立場に置かれながら、それを自分だけのためのものとせず、人のために使うなど金から心が自由であることはできるように思います。
 
信じたら今すぐ出家しろと言っているわけではありません。だのにペトロたちは、自分たちはほめられているぞと思い込んでしまったのです。文字通りに行うことはできない、そんなことが聖書には多々あります。目をえぐれとか腕を切れとか、マタイが書いたことを文字通りに実行するのはあまりに短絡的だと見なされるでしょう。そんな人もいたといいますが。
 
イエスは、弟子たちに向けてこの発言をしています。自分はいろいろ捨ててイエスに従っているんだぞ、とどこか得意げになっている弟子たちに対して、告げています。神にはできるその前に、人にはできない、と言っていたではありませんか。私たちは捨てるにしろ、自分は何かができると思いたいのです。人にはできない、人の思うようにはできないのです。


Takapan
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