そもそも問い自体が

チア・シード

マタイ19:16-22   


果たしてこれが「青年」であるとしてよいのかどうかは議論のあるところです。だから、「青年」であるが故の反応という視点は外して読んでいきましょう。この人のほうからイエスに近づいてきたといいます。当時祝福されるなどなかったであろう子どもたちが祝福されのを見て、一歩踏み出るタイミングを得たと考えたのかもしれません。
 
自分こそ天の国に相応しいと褒めてもらいたかった、と推測して読んでみます。天の国、神の国、従ってそこに永遠の命という概念を含めて理解するのが、当時定着していたのでしょう。それを得るにはどうすればよいか、ユダヤ教のラビでしたら、律法を守れと言うに違いない、だが自分は立派に守って生活しているから、褒められるに違いない、などと。
 
自ら近づき、彼は質問します。永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのか。イエスは掟を守るように言いました。彼は待ってましたとばかりに、どの掟かと質問します。十戒や律法の要をイエスは挙げます。彼は満足します。大丈夫です。全部守っています。もしまだ欠けていることがあったら教えてください、と自信満々です。
 
イエスは、ある意味で意地悪だったかもしれません。そうまで完全でありたいのか。ならば、持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。ここで彼は打ちのめされます。この言葉を聞いて悲しみつつ去ったというのは、この全財産を手放せというところであったことでしょう。私たちは、以上のような説教を聞き慣れており、そこに注目することは既にできています。
 
しかし、この指示がどこから発しているのか、もう少し探ってみましょう。彼は、永遠の命を得るには「どんな善いことをすればよい」のか尋ねています。この問い自体に問題があるのではないでしょうか。つまり、問いそのものが間違っていた、と。だからイエスは、なぜ善いことについて尋ねるのか、と一つクッションを入れているに違いないのです。
 
永遠の命を求める、それはよい。けれどもその条件を、「善いことをする」というカテゴリーの内に限定し、その中で何をするのか、と彼は問いました。善いことをするのを前提としていました。イエスはそのような道を人々が辿るために、命を賭けて闘い、十字架で死んだなどとしてよいはずがない、と私たちは叫んで然るべきではないでしょうか。
 
イエスは「掟」を守るように告げると、案の定、彼は律法の内容に食いついてきます。どの掟ですか、と。ヨハネ伝は、互いに愛し合うことを新しい戒めとして提示しました。マタイはもちろんそれを想定してはいませんが、イエスのもたらす救いが、かつての律法の中で収まるなどと考えていないことは明白です。かつての戒めでは十分でないのです。
 
自分に欠けていることはないでしょ。彼は自分を誇ります。かつての律法については頑張っているのです。しかし、それを自己義認してしまったところへ、イエスから、決定的な指示が来ました。全財産を手放せ。宝を天にもつことになるように、と。この言葉に彼は打ちのめされて、その場を去ることになりました。
 
が、イエスの指示は、そこから先があったのです。「それから、わたしに従いなさい」と。「それから」もその前の「そうすれば」も同じ語で「そして」に過ぎません。だから「その後」の意味に受け取る必要はありません。彼は、イエスに従うという肝心要のところを聞き逃しているのです。そして私たちも、ここをストーリーの中で弱くしか受け止めていません。
 
救われるために「善いことをする」という前提自体に狂いがあったからこそ、財産云々という迷い道に紛れ込んだと捉えてみます。私たちが「する」カテゴリーの呪縛を離れたならば、「イエスに従う」というところに直結する道を見出す可能性があると思うのです。そこに、永遠の命に至る道があるのではないか、と思うのです。


Takapan
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