キリスト者だからこそ

チア・シード

マタイ18:28-33   


信じられないような赦しを与えられて、膨大な借金を帳消しにしてもらい、妻子も財産もすべて失わずに済んだ王の家来。赦されて直後、仲間の一人を見かけます。そうだ、あいつには百万円貸していたぞ。しかしちっとも返そうとしない奴だ。確かに百万円となると小さな額ではありません。しかしこの家来、自分と他人との差が余りに大きい。
 
その男に近寄って行くと、いいかげんに返せと迫ります。一寸待ってください、返しますから。相手が頼みますが、さあ返せと怒鳴り、容赦なく首を締め上げ、さらに罵ります。相手はその場にひれ伏して、どうか憐れみを、と懇願するのですが、この家来、ついに相手を牢にぶちこむのです。俺は王の家来だから権力を握っているのだ、とほくそ笑んで。
 
自分はキリスト者だ。俺はキリストを知っているのだから、この世の罪がはっきり分かるぞ。俺は特別な存在なのだから、世の罪人たちの罪をどんどん指摘して、それが罪だと教えてやろう。こうして世間の人々を見下しているようなキリスト者が、悲しいことですが散見されます。いえ、私もそんなことがあったに違いないと危惧します。
 
この家来のような極端な例が実際あるだろうか、と思われるかもしれません。でも私はいくらでもあると思います。自分の中にそういう誘惑が絶えずあることも知っています。むしろそんなものは自分にあるはずがない、と豪語するところにこそ、その罠があり、まさにこの家来のようなことをしているのだという証拠にならないでしょうか。
 
さらにこの家来の姿を、同じ仲間たちが心を痛めて見ていました。王ではない部類であるこの仲間たちとは、人間たちということなのでしょう。人々は神の前に、実に痛ましいことが興っていますと祈ります。この家来を裁くためではなく、牢に入れられた迷惑な仲間を助けるために、やむを得ずそのようにしたのだと理解したいと思います。
 
王の下す判決は、当然の成り行きでした。憐れみの連鎖をつくることが、どうしてできなかったのか。王が赦すと言ったあの借金は、その家来自身が反故にしてしまったのです。心からの赦しを、人間仲間に対してもつことの必要が迫られます。この譬えは、キリスト者が自覚すべき厳しい自戒の入口となるべき位置を占めているように考えます。


Takapan
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