復活のイエスから分かること

チア・シード

マタイ17:1-13   


死と復活を口にし始めたイエス。たまらずペトロが諫めます。そんなことがあるはずがない、と。するとイエスはペトロをサタン呼ばわりまでして、イエスと弟子たちとの間に溝ができるようになります。その6日後のことだとここに記されています。どうして6日後なのか、あまりに細かな情報に私たちは戸惑いを隠せません。
 
3人の弟子だけを連れて、イエスは高い山へ登ります。この神はカナンの人々により、山の神だとも称されており、山は神から何かを受ける場所であるように聖書にはよく描かれています。また、神と出会う場所でもあります。イエスの姿が変わったのを弟子たちは目撃しました。輝く顔と白い頃も。イエスはまるで光となったようでした。
 
さらに2人の人物が現れます。モーセとエリヤであることが何故か弟子たちには分かりました。シンボルになるものを手にしていたのか、謎は残りますが、ペトロがここで口を開きます。イエスをキリストだと告白し、それから十字架を否定して叱責を受けたペトロです。何かと思いついたことをぶつけないと気が済まない性格なのかもしれません。
 
3人のための幕屋を建てましょう。マルコはこれを意味不明なことのように説明していましたが、マタイはそこを削りました。弟子たちを悪く言うことを避けるためかもしれません。それでも、サタン呼ばわりされたペトロのエピソードを消してはいませんから、十字架のことは、おいそれと理解されなかったと伝えたいのでしょうか。
 
マタイだと、ペトロの幕屋発言に何か意味が暗示されているかのようにも見えます。輝く雲が辺りを覆い、声がしました。イエスの身分がその声で明かされます。弟子たちは恐れ、ひれ伏します。イエスは立ち上がれ、恐れるなと言い、山から下るときに復活までこのことを秘すべしと告げます。復活まで私たちには謎。復活がすべてを解き明かすのです。
 
洗礼者ヨハネが、かのエリヤの役割を果たすのだと弟子たちは知ることになりますが、あの山の上で、イエスがまるで癒すように、手を触れて立ち上がれと言った場面は心に留めるべきでしょう。弟子たちにはもう、モーセもエリヤも見えませんでした。律法と預言者を超えて、復活のイエスだけが神の栄光を現す時期が迫っていたのです。


Takapan
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