教会は今ここで

チア・シード

マタイ16:13-20   


人々はイエスのことを何だと言っているか、それをイエスは弟子たちに答えさせようとします。それから続けて、「それでは、あなたは」と迫ります。弟子たちは複数いることが分かりますが、「あなたは」という気持ちで受け止めたいと思います。信仰は個人に関わり、私と神との関係がどうであるのか、その点を忘れたくないからです。
 
ここではペトロ一人が返答していますが、恐らく信仰告白のモデルとみてよいのではないかと思います。そうした型として、教会で問われていたのではないでしょうか。あなたもこのペトロになれますか。そんなふうに迫られるのも味があります。それにしてもペトロに対するイエスの返答は不思議です。そんなあなたは幸いだ、それはどうしてでしょう。
 
詩編の初めでも目立つ「幸い」ですが、山上の説教の「幸い」の宣言は強烈でした。同じマタイですから、当然そのつながりはあろうかと思います。しかしここでペトロがすなわち「岩」だとすることには、何か含みをもたせているようにも感じられますが、それより今回は、そこに人々の集まりである教会を基礎づけるという点に注目してみます。
 
はっきり「建築する」という意味の用語を用いています。しかし教会は、決して建物を指す語ではありません。ここでは陰府の門と対比されており、教会は命の門であることが浮かび上がります。天の国の門を開ける鍵をペトロに授けるというのです。ここからペトロは第一の教皇である、と定めたのがカトリック教会の伝統となりました。
 
かつてカトリック教会はこのために、絶大な権力をもつ可能性を宿しました。人々の救いを左右する鍵をもっている、というのは、弱小教団であった間には非力な遠吠えだったかもしれませんが、政治権力をもつようになると、恐ろしい圧力をもって響く号令となりました。でもそれでよかったのでしょうか。またしても人間は、創世記に戻るのでしょうか。
 
アダムは生物とこの世界を管理するように命じられた、と理解したことで、人間が世界の支配者である、と自負するに至ったように、教会が天の国の鍵が与えられたことを勘違いした可能性があります。「結ぶ」と「解く」のが教会の特権であるようにも読めますが、そこに「地上で」という言葉が付いていることを見落としてはいけません。
 
この地上には今私たちがいます。私たちのすることの一つであるように読めるのです。救いと裁きの権威が人にあるのではありません。神に対してひとと世を結ぶため、ひとを罪から解放するため、どちらにしても、ひとに救いをもたらすために教会が今ここにあると自覚してはいけないでしょうか。教会は今ここで、福音をこそ叫び伝えるのです。


Takapan
たかぱんワイドのトップページにもどります