言い伝えが優先している
チア・シード
マタイ15:1-9
イエスはまだガリラヤ湖周辺で活動をしていました。律法学者やファリサイ派の人々はそこにも幾らかいました。安息日規定について注意をしたり(12:2)、殺意を抱いたり(12:14)、イエスの力を悪霊の力だと言ったり(12:24)しています。また、イエスにしるしを求めもしました(12:38)。イエスは時に、神に真に逆らうことの意味を教えています。
弟子たちへ向けては、次々と教えを授けますが、故郷ナザレでは受け容れられませんでした。洗礼者ヨハネの死を悲しみ、寂しい所へ退きましたが、そのとき湖の上を歩くという奇蹟をも弟子たちに見せました。こうしたことは、都でも話題になっていたように思われます。あるいは、ガリラヤ地方のファリサイ派の人々から連絡を受けていたのでしょうか。
エルサレムからイエスにクレーム係が派遣されたのです。律法学者やファリサイ派の人々が、わざわざイエスのところに来ました。「食事の前に手を洗」わない弟子たちの行動についてイエスに問うのですが、それは小さなきっかけに過ぎなかったのかもしれません。本筋は、「なぜ」「長老たちの言い伝えを破る」のか、ということでした。
神の律法そのものではなく、「言い伝え」が中心にあったことで、イエスの反撃を許すものになっていたようです。イエスもまた「なぜ」と問い返します。「自分の言い伝えのために、神の戒めを破っているのか」と言いました。問うとは言いながらも、疑問文なのではありません。そして「父と母を敬え」という十戒の命令を題材に迫ります。
「言い伝え」によると、「神への供え物」という口実があれば、父と母の求めるものを拒むことも認められているのだそうです。それは、ミシュナと呼ばれた口伝律法のことでしょう。法律が憲法に反することがあってはならないように、「言い伝え」も、十戒や律法に反するものであってはならないはずです。そして一瞬、そう見えるのです。
しかし、イエスは分かっていました。律法よりも「言い伝え」の方が優先されている、と。神の律法が蔑ろにされています。「自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている」というのがイエスの見解でした。私たちもまた、イエスに「偽善者たちよ」と突きつけられても仕方がありません。イザヤの言葉でいう「人間の戒め」が優先しているならば。