天の国について語る結び

チア・シード

マタイ13:47-52   


天の国についての教えをまとめにかかります。この後再び天の国について教えるのは、エルサレムにいよいよ入っていく頃です。そこでは終末観が色濃く現れてきます。この毒麦の辺りでも終末は描かれていますが、まだ切迫感はありません。不法な者が紛れ込んだまま世が動いていくことや、キリストが宝に注目して命と引き換えるというような話でした。
 
さらに加えて、毒麦の発想をもう一度添えて、そのはたらきの大切さを念を押して語ろうとしているかのように見えるのが、このまとめです。それはまず網であるといいます。この網が神の国です。世の終わりに神がなすことです。悪い毒麦を引き抜いて捨てた畑の時のように、悪い魚を投げ捨てるのです。
 
毒麦も悪い魚も、火の中に投げ入れられます。燃え盛る炉だと繰り返し告げられます。そこで泣き喚き、歯ぎしりをするのです。ずいぶん恐ろしい光景です。マタイはしばしばこのような、いわば地獄の風景を、淡々とではありますが表現します。ひとに恐怖心を与えるのが教えに効果的だということを知っていたのでしょうか。
 
イエスはひとまず天の国のあらましについて語り終えました。弟子たちに尋ねます。天の国のことがみな分かったか。弟子たちは平然と、分かったと答えています。イエスは、天の国のことを学んだ学者のことを突然口にします。律法学者と対比しているように見えます。律法の文言を自分本位に理解し適用するのとは違う、神の支配を学ぶことが必要なのです。
 
マタイですから、律法そのものを悪し様に言うことはないと思われます。そこに尊さを感じて当然です。しかし律法学者が頭に置くのは旧約だけで、それもエリート本位で解釈した理解の仕方を万人に適用しようとします。旧約の教えを信奉していても、それを用いて人々を圧迫するばかりで、世の終わりについての自覚が薄いことが特徴的です。
 
新約の時代には、律法ですら、福音として生かされることを知ることこそ、天の国について学ぶということになるのでしょう。弟子たちはまだ恐らく本当には分かっていません。イエスはこの後、故郷に戻ります。その不信仰がイエスの力を発揮する機会を消しました。私たちも新しいものに気づかないで古いものに縛られていないか、省みる必要があります。


Takapan
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