天の国が似ているもの

チア・シード

マタイ13:44-50   


天の国についてのたとえが続きます。毒麦という、喜べないタイプのものをたとえたものにも、種蒔きと同様にイエス直々の解説がついていました。それが終わると、天の国はこれこれに似ている、というたとえが3つ続きます。まず畑に隠された宝、次に商人が良い真珠を探していること。最後に、網にかかった魚を集め選り分けることです。
 
たとえというものは、隠されていたものを告げるために用いられました。だからその本質を、一定の命題として述べることはできないはずです。私たちも、ここから天の国は云々と結論づけようとするような愚かなことはやめましょう。ただ、分かったか、と弟子たちには問いました。天の国を学ぶことはやめるわけにはゆかないようです。
 
天の国は、畑に隠された宝に似ている。神の支配はまさに宝です。これ見つけた人は、畑から盗むことをせず、正当な手続きをとってこれを買いました。自分の財を差し出して、宝を手に入れたのです。6章で、天に宝を積むようにとイエスは語っていました。この宝が神の支配に似ているといいます。宝に私たちの心もあるということでした。
 
ここまで読むと、まるで天の国を手に入れるために、財をすっかり売り払って買い取らなければならないもののように見えなくもありません。けれどもかつて申命記で、神は地上で小さな民にすぎないイスラエルを、宝の民とされたと言われていました。まるでイスラエルの民、そして私たちこそが、宝であるかのように聖書は扱っているのかもしれません。
 
天の国はまた、良い真珠を探している商人に似ている。今度は人なのだそうです。商人が神の国となっています。確かにそう言っています。だのに私たちは、真珠を天の国のように貴重なものであるかのように、勝手に解釈してしまっているのではないでしょうか。ここで天の国になぞらえられているのは、確かに商人であって、真珠だとは言えません。
 
こちらも、財産を売り払って真珠を買う商人の姿ですから、疑念は続きます。まるで、永遠の命を得るために財を差し渡すかどうかテストされた議員のような心持ちがします。少なくともプロテスタント神学は、こういうことを救いの条件にしはしないはずです。あくまで差し出すのは、救いの結果であって、救いの手段や目的ではないのです。
 
ここまで、天の国は宝であり、商人であるとされました。どうもたとえの本筋が見えにくくなってきました。宝のあった畑を買ったのも、ある人です。つまりここでは謎の人が天の国の鍵になっています。そうした特別な人として、私はイエスのほか思い当たりません。イエスが宝なる私たちを見出し、また良い真珠を見つけて買い取ったのです。
 
たとえの人たちは、持ち物をすっかり売り払いました。イエスの捨てた命がこの「すっかり」に該当します。そして贖うという語の本来の意味がそうであるように、イエスは私たちの救いのために自分の命を差し出しました。身代金を支払う営みで、罪人たる私たちの命を買い取った、あるいは贖ったのでした。たとえにはイエスと私たちが語られているのです。
 
宝なる私たちもまた、神の支配下にあるひとつの国であり、神を王と仰ぐ者です。買い取ってくれた人をイエスと仰ぎ、それにより救われて永遠の命を得る、などと今後展開していくことになるでしょう。天の国の最後のたとえは、網でした。魚を集める網が天の国なのですが、その網には、良い魚も悪い魚も同時に飛び込んできます。
 
これは先の毒麦の刈り入れのようにも見えます。毒麦のたとえにおいては、悪いものに話の照準が合っていました。この世で神の国の支部のようには機能する教会やキリスト者共同体と共に、悪いものが混じったまま終末を迎えるというのです。しかし畑の宝、良い真珠のように、確かに神は私たちを価値あるものとして見、大切に買い戻してくれます。
 
では網はどうでしょう。ここでは擬人化もされていませんが、一網打尽のように囲い込んだ魚を二種に選び分ける人がいます。父なる神を示そうとしているのかもしれません。しかしこの網のたとえは、毒麦のときと酷似しています。世で入り混じっている悪い者も、さしあたりそのままにしておくのが、天の国なのだと言っていることになります。
 
天の国は、毒麦の話を含め、からし種やパン種と、世にはびこる悪を示すものばかりでした。他方、救われるべき宝や真珠に対しては、イエス・キリストが買い戻す姿が重なって見えるように思いました。しかしやはり最後には、悪を裁く世の終わりが強調されて、天の国のレクチャーは閉じられるのです。天の国をたとえは、こう指し示していたと思います。


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