からし種とパン種は良いものか

チア・シード

マタイ13:31-33   


イエスは「別のたとえ」を持ち出しました。これは直前の毒麦のたとえにおいても同様の言葉でつながれているので、別でない元のたとえというのは、種蒔きのたとえだということになります。芽生えなかった種が多々ある中で、良い地に落ちた種だけが豊かな実を結んだというたとえです。人々には意味が隠されましたが、弟子たちに開示されました。
 
それでこの「別のたとえ」も弟子たちに向けて語られました。この毒麦の話からが、天の国についてのたとえとなっており、続いてこのからし種とパン種のたとえもまた、天の国がどのようなものであるかを知らせるものとなっています。マタイの編集であるとしても、イエスは幾つか天の国について語ったのであり、なぜ「たとえ」であるかも説明していました。
 
天の国のたとえは、まず毒麦に始まり、続いてこのからし種とパン種の話です。小さなものが大きく膨らむ例として挙げられています。小さな信仰でもやがて大きく育っていく、という受け取り方をして説教で用いられるのが一般的であろうおと思います。私もまた、信仰の教訓であると受け止めていました。でも、そうするとつながりが解せない気がしました。
 
直後で、イエスは先の種蒔きのたとえと並行するかのように、群衆に向けてたとえしか話さず、いわば隠すような手法を告げています。さらにその先には、かつての預言者たちがそれを見たかったのに見られなかったと語り、見ようとしても見えないからたとえなのだ、ということのようです。それが今やイエスにおいて実現したのだ、とマタイは知らせています。
 
またこの二度目は、毒麦のたとえの提示とその謎解きとの間に挟まれているわけで、これも種蒔きのたとえの時と同じパターンですが、その話は、敵が蒔いた毒麦が育っているがさしあたり今は手をつけずに放置しようというものでした。裁きのときになるとその毒麦たちは泣き喚いて歯ぎしりをするといった様子を描いています。
 
からし種は数メートルにも生長することがあるというがこれは何なのでしょう。全体を膨らませるパン種というのも何なのでしょう。そもそもパン種はよくない例として他では使われるばかりです。ここだけが良い意味で使われているという私たちの判断は正しいのでしょうか。毒麦の説明に挟まれた箇所から、ここだけを切り取って説明するのは適切でしょうか。
 
神の支配する国において、毒麦のように膨らんだ悪は相応しからぬものではありますが、結局それは神が見分けて取り除くものだとされていました。からし種やパン種が膨らむのは、この悪しきものが芽生えて広がることを意味していると理解してはいけないでしょうか。神の支配はそれに似ているというのです。いましばらく悪ははびこるのもやむをえない、と。
 
どんな種よりも小さなからし種でも、成長するとどの野菜より大きくなってしまいます。空の鳥が来て巣を作るというのも不気味です。エジプトのヨセフの夢では死を予言し、エレミヤの預言では逆らう民が鳥の餌食となりました。パン種は三サトン、つまり何か3つのグループに混ざり拡大してしまうのです。読み込みすぎでしょうか。


Takapan
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