誰のどんな重荷なのか

チア・シード

マタイ11:28-30   


教会の表看板にしばしば掲げられている聖句。世の中で疲れを覚えた人がこれを見て、ふと教会に足を向けないか、という願いがこめられて場合もあるでしょう。読んだだげて癒されるわけではありませんが、ここに何かあるかもしれない、と思わせるのに相応しい聖書の言葉でありましょう。けれども、ここだけ取り出して読んだイメージと、一連の記事の中でこの言葉に出会ったときとでは、ずいぶん印象が異なるのです。
 
少し前に遡りますと、イエスは十二人の弟子を特別に選出します。そして世に派遣するための心得を伝達します。ところが、世はそう簡単にはそのメッセージを聞き入れません。しかしそれで落胆することはない、聞き入れないほうが裁きを受けるのだ、と説明します。その流れの中で、幼子のような者に父として助けを与える神を称え始め、そのまま神に祈るような言葉の中で、疲れた者、重荷を負う者、と呼びかけ、そこに平安が与えられる、と言うのです。これは明らかに、伝道の声ではありません。
 
これに続く場面では、ファリサイ派により安息日規定違反が指摘され、イエスはそれに対抗はしますが、そのことで殺意を抱かれるようになります。また、悪魔とも呼ばれ始めます。どうにも、人の救いのために呼びかける言葉が紛れ込む雰囲気ではありません。このイエスの呼びかけは、いったい誰に向けてのものだったのでしょうか。そしてそれはどんな意味だったのでしょうか。
 
父よ、とほめたたえる、いわば祈りの中でこれは言われています。この父を知る者と、それが分からない者とがいることが示唆されている、その時に告げられるのです。疲れた者がいて、重荷を負う者がいる、と。その人は皆イエスのもとに来るならば、休みが与えられ、平安が与えられる、と言うのです。
 
弟子たちを派遣はしたが、悔い改めない町がいろいろありました。弟子たちはその時どう思ったでしょう。迎え入れられない場合への対処が10章で言われていましたが、それはまさに、弟子たちが伝えるイエスの言葉に従わない町があるという前提であったでしょう、弟子たちはその場面に間違いなく遭遇しているのです。自分は何と無力なのか、イエスの言葉を伝えているのに、と疲れ果て、望みを失いかけていたことが容易に想像されます。
 
自分の無力さや失敗の様子を嘆き、思い悩む弟子たち、キリスト者の姿がここにあります。そこへこそ、疲れているのだな、重荷を負うて大変だったな、と声をかけたのが、イエスの思いやりだったのではないでしょうか。だが心配には及ばない。軛は二頭の牛などにより構成されますが、隣にはいつも私が、このイエスが共にいるではないか。それこそが、真の安息というものなのです。形式ばかりの安息日規定とは違うのです。
 
弟子たる者がいくら伝えようとしても心を閉ざす世に対して、共にイエスがいることを知り、そこに信頼を寄せるならば、労苦は増すことはないのです。ここに本当の安息があるというのです。柔和・謙遜がどうだということには今は関わることなく、ファリサイ派の攻撃の中で我が道を往くイエスと、その譬えの語り示すものが、弟子たちの歩む道となるのです。私たちの道であるのです。


Takapan
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