襲われているその今

チア・シード

マタイ11:11-13   


難解な箇所だと言われています。バプテスマのヨハネが話題であることには違いないのですが、そこではまず、人としてこれ以上ない偉大さがあったという点を押さえておかなければなりません。もちろん人間として立派だったということを言いたいのではありません。天の国というフィールドで考える場合の、最上の存在ということです。
 
マタイの語法ですから、もちろん「天の国」とは「神の国」のこと。神の名をみだりに口にしたくないための手法です。イスラエルは、天地創造のこの神により支配されるべく歩んできました。イエスはさらに人間一般にとり君臨する王となるのであって、その登場により支配権が公認され、その時代が始まることを示すのでした。
 
喩えるに相応しくないかもしれませんが、日本で見た即位の礼であり、西洋絵画で見る戴冠式がこれに相当するでしょう。このときヨハネとは何か。もちろん王ではありません。道を整える死者だと直前で告げられていました。何の道なのか。王の入場する道のはずです。ヨハネが切り拓く。ヨハネが門を突入する。王に先立ち、王のための準備をします。
 
しかもこのヨハネによる、いよいよの討ち入りは、これまでの預言者たち、律法の書が告げていたことです。ここから地図が一変します。ついに王が来るのです。ではこのヨハネの時から今の時まで、神の国が激しく攻められており奪い取られているというのはどういうことなのでしょう。問題は「今」と表されているその時です。
 
マタイの語っているその時である「今」なのでしょうか。「あなたがた」が指しているのは誰のことなのでしょうか。群衆である、というのが場面からして正しい読み方でしょうが、それだけでよいでしょうか。この期間があまりにも短くなりすぎないでしょうか。地上のイエスの時のことなのか、やがて再び来るイエスの時のことなのか。
 
神学的な議論はいろいろあるでしょうが、私たちがこの福音書を前にして言えるのは、私たちがこれを読み、神の示しとして聞いているこの「今」でしかありえないのではないか、ということ。私たちが今この戦いの中にあるのです。ですね。旧約の預言が実現して、今、新約の言葉が、いつでもそこに触れる者に対して、生きて響いてくるのです。


Takapan
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