イスラエルの家の失われた羊

チア・シード

マタイ10:5-15   


異邦人、サマリア人のところにではなく、イスラエルの家の失われた羊のところへ行け。この偏狭な命令は、時が迫っているためだ、などとする説明がありますが、私はそうは思えません。注目したいのは、徹底した癒しを行うように命じており、しかも報酬を求めるのではなく、ただ与えるばかりとせよ、とも命令したことです。
 
イスラエルの家の羊は、迷える者としてエレミヤが挙げたことがあります(50:6)。また、エゼキエルも、散らされていた羊を救い出すと言いました(34:12)。預言者たちを通して、イスラエルが神の支配を受けて平和を得る時が来ること、そしてイエスによってそれが来たのだということを伝え明らかにする、それが弟子たちの役割なのでした。
 
奇蹟のような癒しの業が並べられています。不思議と、それができるのかどうかの心配はなされていません。これは不思議なことです。が、どうやら「汚れた霊に対する権能をお授けになった」(10:1)ことに基づくようです。癒しの業そのものは、弟子たちには、できて当たり前のことなのでした。癒しの権能を、すでに受けていたのですから。
 
私たちもキリストの弟子であるのなら、つまりキリストに出会い、癒されたのなら、その権能を受けています。ならばそれを別の人に向けて与えていくこともできるはずなのです。平和を、出会った人々に告げ知らせるように。シャロームという挨拶の言葉がありますが、ただの挨拶としてでなく、平和というその意味をこめて用いよ、ということでしょうか。
 
平和という言葉が、実質を伴い実現するものとして伝わったならば、そこに癒しが現れることは当然です。打ちひしがれた心が癒され、それを支配していた悪霊は逃げ出します。ただ、なかなかそれが実現しない相手も世にはいます。そのときには足の埃を払い落とせ、とイエスはアドバイスしました。きっぱりと道を断つのです。
 
人情や意地で、頑なな人に関わる必要はありません。肉の思いで必要以上に関わっていくものではないというのです。私たちは、もう人の力を頼みとはしません。必要な物は神が備えます。神の国が近づいたのは、時間的にもそうだし、空間的にもそうでしょう。いまは失われていても、救われ導かれ憩いに招かれているなら、私たちがイスラエルです。


Takapan
たかぱんワイドのトップページにもどります