神を恐れよ

チア・シード

マタイ10:26-31   


わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい――この明るさは神の明るさではありません。この世のことです。暗闇とはむしろこの世の片隅で隠れてなんとか生きているようなクリスチャンたちの場を指し、人々に公に語れ、と言っているように聞こえます。神は隠れたところにおられ、か細い声で私たちに御声を聞かせてくれるからです。
 
それはそうとして、このペリコーペは、人々を恐れるな、に始まり、最後も、恐れることはない、と終わっています。初めは人々を恐れずに語り、言い広めよという励行があり、中盤では恐れる対象を転換させています。人々はクリスチャンの体を殺しにかかってきます。マタイはこの現状を見て知っています。迫害の事実を否定はできません。
 
しかし本当に恐れなければならないのは、そうした人間ではありません。命を殺すことはできないからです。日本語でそう聞くと混乱します。マタイの使っている「体」はソーマであり「命」はプシュケーです。肉体は殺しても魂は殺せない、のようにも読める語です。この「命」はヨハネ伝のゾーエーではありません。人間全体の統合された姿を表しています。
 
キリスト教は二元論を支持はしません。プシュケーは肉体から取り出した魂というイメージでは見るべきではないということです。これと対置されているのは、この地上での肉なるありかたです。人は霊が不健全になると、ただの肉として生命活動をするだけのものになりかねません。魂とは人格が肉に具わった姿のように受け止めたいものです。
 
神はこの人格的全体としての人間に関わります。父なる神とのつながりをクリスチャンはもちます。神により生殺与奪の権を握られていることをもっと根本に据えていたいものです。原文は「父なしには」であり「許し」の語はありません。雀ですら神と結びついているのですから、まして魂としての人は父との関係を欠くことはないはずだというのです。
 
人間は雀以上だと位置づけられます。肉体だけを攻められて滅びるというような脅しに怯んではなりません。繰り返される「恐れるな」の中央部に「神を恐れよ」があります。ここに光を当てる必要があります。その上さらに、人を恐れるな、と結ぶことで、神を恐れる者ならば、そんなことは簡単だと励ましているように聞きたいものだと思う。


Takapan
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