羊と狼、蛇と鳩

チア・シード

マタイ10:16-20


人々を警戒せよ。注視を怠るな。使徒たちを遣わすのであるけれど、人間たるものを安易に信じてはならない。イエスは警告を与えます。このフレーズでは、イエスのことばを伝える出る者への心構えが記されていることは間違いありません。人々は狼であるが、諸君は羊にすぎないという構図です。
 
そして有名な、賢さに於いては蛇の如く、素直さに於いては鳩の如くあれという諭しがあります。動物のメタファーが並びます。それはそれでよいのですが、少し違った視点を私は気にしてしまいます。警戒すべき人々とは誰のことなのでしょう。私以外の誰かであって、私はいつも被害者であるという、ありがちな、根拠なき前提を構えて、すべての思考をスタートすることでよいのかどうか、気にしてしまうのが私の癖なのです。
 
私がその狼ではないという保証はどこにあるのでしょう。聖書を読んでいる私は、無条件に、イエスの味方であり続けるのでしょうか。私が、信ずるという者を引き渡すべく訴えて、裁きの座に引き出してはいないか、自らまた裁きの座を設けてはいないか、手許を見ることが必要なのではないか、と思うのです。
 
迫害という語は、自分がなされるためのものであるとクリスチャンは安易に決めてかかっている場合があります。しかし実のところ、そうとは限りません。現に歴史は、教会が他の人々を迫害し、殺してきたという事実を物語っています。いまの自分だけがそういうことはない、と決める根拠は、ないはずです。ベルゼブルを主人とする者は、ベルゼブルと同じような者となってしまうのです。
 
しかしまた、証しをするという私たちの生き方を考えてもみましょう。引き渡されることがあっても、異邦人たちへ証言をすることができるという描写は、ローマ人により裁かれる情況を含んでいると思われます。そのとき言うべき内容については、予め心配して考えておく必要はないのだとイエスは教えています。証言は、命懸けのものです。殉教者という言葉はこの証人という語を用いるようになりました。
 
語るべきことは、教えられる。受動態の表現は、神という主語を暗黙に了解しているというのが、聖書の通常の読み方です。神が教えてくれる。あるいは、聖霊が教えるとしても同じことでしょう。そのとき、弱い羊はただの羊ではなくなります。小羊イエスに従って歩むときは、自分だけが孤立しているのではないからです。
 
この恵みは、自分がいつの間にか迫害する側に回っている時には与えられません。歴史が教えている通り、それは気づきにくいのです。羊と狼、蛇と鳩。狼にだけはなるはずがない、という思い込みは危険です。蛇のように賢く、自分自身を見張っている必要がある、この前提に立ちたいと願います。


Takapan
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