律法に還れ

チア・シード

マラキ3:19-24   


旧約聖書の最後の最後を開きました。わが僕モーセの律法を思い起こせ。最後から3節目に置かれた言葉は、あまり注目されていないように思われます。預言者がエリヤが遣わされるというほうに目を奪われ、洗礼者ヨハネのことに結びつけて終わりであるか、義の太陽という言葉で正義の主の勝利を確信しているうちに見過ごされてしまうのです。
 
その日、と預言者はしばしば口にします。終末の日、すべてに片がつく日のことを描いているのでしょう。義の太陽を待ち、その太陽が自分のようなクリスチャンのために昇るのだと自負する、そういうありがちな信仰の姿が思い浮かべられます。そうでしょうか。いつの間にか、自分が神を指図するような存在に成り上がっていないでしょうか。
 
よほど戒めておかないと、人は簡単にそうした図式の罠の中に入り込んでしまいます。確かに、あなたがたには義の太陽が昇ると言うし、翼には癒しがあるとします。子牛のように躍り出て跳ね回るのだと告げます。これらはすべて上からの恵みであって、私自身には何の特権も力もありません。そこさえ弁えておけばよいのでしょうに。
 
そのためにも、今一度モーセの律法を思い起こせ、という命令が下されたのです。大きな意義があります。この旧約の締めにおいて、律法への喚起があったということになります。新約では、律法など小さなことのように見なされるという思い込みが、時折見られます。いえ、実のところいま私たちに、そうした偏見はなかったでしょうか。
 
でもここではっきりと、思い起こせと命じています。旧約のすべては、ここに落ち着くかのように。コヘレト書でも、神の命令を守れ、それに尽きる、という結論がありました。私たちは、もっと律法へ着目しなければなりません。律法そのものには、何の問題もないのです。ただ、それの捉え方のみ、改善されるべきだったのです。
 
ファリサイ派の人々や律法学者たちと同じように理解していてはなりません。私たちは簡単にそれと同じになってしまうことがあり、しかもそれに気づかないということが起こります。預言者エリヤは、洗礼者ヨハネとして遣わされたということですが、もしかするといまこの私もまた、エリヤたれと告げられ、期待されているのかもしれません。


Takapan
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