旧約から新約への橋渡し

チア・シード

マラキ3:19-21   


旧訳と新約をつなぐ橋だとも言われるマラキ書の、実に最後を飾るフレーズを迎えます。この後三つの節で、一旦神の言葉が閉じられてしまうのです。一応キリスト教側で採用している並べ方でそうなっているわけですが、このラストで求められたエリヤを、人々は待っていたのであり、それがバプテスマのヨハネとして現れたと理解されたことになります。
 
マラキは、裁きとしての主の日を描きます。神に敵対する者はわらのように燃やされます。跡形なく消え去る運命にあるというのです。しかし、主が宝として扱った者たち、主を畏れる者たちは、喜び躍り跳ね回ります。まるで産まれた子牛のように、という表現が印象的です。旧約世界でしばしば跳ねる喜びを表すときの表現のようです。
 
そこに輝くのは、主の光、義の太陽です。もはや暗闇はなくて、夜がない。黙示録の最後に描かれる情景を私たちは思い出します。義の光を受けた、主に従う者たちは、悪しき者たちを踏みつける。すでに灰となっていたかもしれないような相手ですが、この出来事により灰となったのかもしれません。なんとも象徴的な表現だとも受け取れます。
 
文字通りに受け止めてイメージするべきでないのでしょうが、マラキが与えられた確かなしるしがここに示されているのは確かです。これを外から眺めるのは、私たち信仰者にとり相応しいことではありません。私たちはこの神の出来事の枠の内にいるのです。聖書を外から取り扱おうとするほどの人間の知恵や知識は明らかに罠です。
 
一方的に主を畏れる者という側に自分がいるものと安易に考え身を寄せてしまう、能天気な私たちがいるのも事実です。かの酷い裁きが自分にも及ぶのではないか、とかつて人々は畏れました。この恐れが、主への畏れとなりました。私たちは果たしてそのように畏れているでしょうか。恐れているでしょうか。問われます。
 
これを経てこそ、新約の時代を迎えられます。これを経てこそ、新約で描かれた「主の日」を私たちは生きることができます。新約の「主の日」は、イエスの登場です。救い主と出会い、変えられることです。マラキ書は、その布石をなします。ただの裁きの前に、救いの日がくる。マラキ書は、義の太陽を伝えることで、その喜びを期待させていたのです。


Takapan
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