使者のメッセージ

チア・シード

マラキ3:19-24   


旧約の預言がここで途絶えます。その後旧約聖書続編という名でいま発行されている、ヘレニズム期のユダヤ文化の文書は、プロテスタントでは正典とは認めていません。しかし福音書などでそこと関連があると思われる記述があることを思うと、そして物語としてても教訓としても、復活思想の表現としても、もっと読めばよいのにと残念に思います。
 
3:1に「わが使者」という表現がありますが、これが発音としては「マラキ」です。そのため、このマラキという書名は個人名なのでなく、使者という意味で付けられているのではないか、という説もあります。現マラキ書が一度に出来上がったのか、後に書き加えられて完成したものなのか、これも諸説あります。旧約の総括として読むとまた味わいのある書です。
 
神がイスラエルを愛していることに始まり、主を拝することについて語られ、そのとき祭司の役割が重要であることが述べられます。主は地上に、主なる神の支配することをやがて明らかにすることでしょう。神は確かに終末を備えているのです。いままさに使者が来て道を備えようとするのですが、やがてバプテスマのヨハネが改めてその役割を担います。
 
それから義の太陽が輝くのを私たちは待つのです。義の光のもとに私たちは喜ぶのです。古来神を見上げるどれほどの人々がこのメッセージを信頼してきたことでしょう。地上での命には限りがあること、不幸や理不尽にこの世が満ちているいることを経験する中で、しかし決してそれだけですべてが終わりを迎えることはないことを神の結末として期待してきたのです。
 
地には呪いが及ぶにしても、主の名の下に治められる世界が滅びることはありません。ただ、裁きはあります。主の大いなる日、恐るべき日はいつのことなのでしょう。これも古来、人々の関心の的でした。これを定められぬとする人もいました。定められないから結局そんなものはありはしないのだ、と否定するに至る人々もいました。
 
使者エリヤが神により遣わされるという旧約最後を飾る恵みの知らせを、ユダヤ人も待ち続けていたということです。この思いは現代もなお変わってはいないのではないでしょうか。いえ、キリスト教徒がこれを忘れてはいけないのだと思います。そして、父と子の向き合う姿の幻は、ヨハネがその福音書の中で如何なく描ききりました。やはり旧約と新約との架け橋です。
 
さて、終わりの日というとき、一人ひとりの終末としての主の日を考えるのは、早計に過ぎるかもしれませんが、想定していけないことはないでしょう。地というのは私という存在なのかもしれません。しかし、待ち望む救いは、頁をひとつめくった新約聖書において、イエス・キリストがもたらすこととなりました。


Takapan
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