イエスの名を用いる者

チア・シード

マルコ9:38-41   


弟子のヨハネは、イエスのいわば秘密の行動に、特別に伴うことを許された一人でした。その発言としては、抜け駆けをしようとしたことが、よく知られています。栄光を受けるときに左右の大臣の地位にしてほしい、と。もう一つ、マルコは描いています。イエスの名により悪霊を追い出している者が、自分たちに従わないのでやめさせた、との報告です。
 
ほめられようとの意図だろうと推測します。マルコは一般に、弟子たちに対する評価が厳しいと見られています。教団の擁護に走るのではなく、イエスの権威をまざまざと見せたかった可能性もあります。ヨハネの言葉も、中途半端なものにここで浮かせて、イエスの言葉を際立たせるための手段にしています。イエスは、彼らをやめさせるなと一蹴します。
 
逆らわないならば、味方なのだ。セクト主義を好まない姿勢かしら、とも受け取れます。すでにキリストの名を以て活動するグループが複数できていたとして、それらのどれかを特に優位に置いたり、逆に弾き出したり、ということを好まないように受け取れるからです。但しそのとき、イエスの名を使ってやっていることが必要であるようです。
 
名というものそのものに、重要な意味をもたせるのが古来の考え方です。名こそ神の実質であり、神は名によって働くというのです。ならば、邪な心から、形だけイエスの名を口にする場合はどうなるのでしょうか。マルコはここで、それに答えようとしているわけではありません。無邪気なのか、邪なのか、それはいまは問わないでおきましょう。
 
イエスの言葉は、キリストの弟子へ、水一杯を飲ませる人への報いを以て結ばれていました。私たちこそ、情けをかけられる側だというのなら、ここでイエスに擁護された者たちに比せられます。私たちがまさに、イエスの名を使ってなにやらやっている、迷惑な者のことではないか、とも思うのです。中身を伴わず、イエスの名を用いている者では、と。


Takapan
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