孤独と疎外感

チア・シード

マルコ9:30-32   


癒やしの業は、人々の耳目を集めることでしょう。この直前で、イエスは厄介な状態の子どもを癒やしています。人々はイエスに熱狂したかもしれません。一人ひとりは、自分一人くらい大した影響はないと思いがちですが、それが群衆となるのです。人間たちは巨大な力を及ぼす存在となり、確実に自分はその一部として機能することとなります。
 
マスで働くこの力を、イエスは多分に嫌がったのではないでしょうか。信仰はもっと個人的なところにあるものだ、と福音書は告げているように見えます。それでも、イエス後の教会は五百人だとか三千人だとか、人々を塊で見ている部分もあります。記事としては仕方ないかもしれません。あるいはそれは一人ひとりのドラマの総数ということでしょうか。
 
イエスは、人に気付かれるのを好まなかったように描かれています。群衆に弄ばれることになるのをよしとはしなかったと思われます。ヒーローに祀り上げられてはたまりません。そして世の王にさせられて評判が当局に伝われば、命を狙われることにもなりかねません。もちろん、いずれその道に導かれ、殺されることになってしまいますけれども。
 
その先にある運命は、否みようがあませんでした。弟子たちにイエスが告げます。「人々の手に渡されて、殺される。殺されて三日の後に復活する」という言葉は、「言っておられた」とされています。ここへ来るまでにもう口にしていたのでしょうか。弟子たちには、このときイエスの言葉の意味が分かりませんでした。
 
イエスは、理解されない孤独感を覚えていたかもしれません。弟子たちは後になって、その意味が分かります。十字架と復活の出来事においてです。「怖くて」とはどういうことでしょうか。弟子と師との関係の、微妙な距離感を覚えます。弟子たちは、群衆の一部ではないけれども、イエスの一部でもなかったのです。主も疎外感を覚えないでしょうか。


Takapan
たかぱんワイドのトップページにもどります